可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 堀聖史個展『まなざし仮面』

展覧会『堀聖史「まなざし仮面」』を鑑賞しての備忘録
Bambinart Galleryにて、2020年7月11日~26日。

堀聖史の絵画展。

《夢を見せる》では、画面下部に白い裸身を晒す女性が横たわっている。その足にネコらしき動物が飛びついている。女性の視線の先には、植え込みの脇に羽の生えた人物(?)が佇み、マンドリンのような楽器を腕と体で支えている。頭部はマヤ文字のような複雑な形で、火を吹いて「夢を見せ」ているらしい。アンデルセンの「マッチ売りの少女」よろしく、二股に分かれた炎の先には幻影が広がる。幻の世界には、1本の樹木を中心とした広場があって、怪しげなキャラクターたちが多数屯している。彼らは、幻影を見る女性に視線を注いでいるようにも見える。幻影=絵を見る者は、それに見返されるのだろう。羽人間の左手には、夢を見せられた別の組なのだろう、地に突っ伏せる裸体の女性とそのそばに控える、やはり複雑な造型の頭部を持つキャラクターとが描かれている。
《笛を吹き鳥を擦る》には、鳥らしき生物を抱える女性(?)と、その足下に、笛を吹いている別のキャラクターが描かれている。笛を吹くことは"blow job(口淫)"を、鳥を擦ることは"hand job(手淫)"を、それぞれ連想させる。《みんなソファで寝た》に描かれる4匹(?)のキャラクターたちが、ダフィット・テニールスの《聖アントニウスの誘惑》(国立西洋美術館蔵)において「愛欲」を象徴する、杯を手に聖アントニウスに近寄る白いドレスを纏った女性同様、鳥の足を持っていることからも、作品に性的な欲求を読み込むことも不可能では無いだろう。
《夢を見せる》の夢、《みんなソファで寝た》の眠り、さらには《脱獄》における鳥に現実からの飛躍。机に伏せて眠る人物とフクロウやコウモリ、ネコを描いたフランシスコ・デ・ゴヤの《理性の眠りは怪物を生む》を連想させる(因みに《泣く犬とサンタクロース》はゴヤの《砂に埋もれる犬》に連なろう)。理性の働きから解き放たれたところに、絵画の可能性ないし絵画的現実が生じる。一連の作品に、理性への疑義から生じたシュルレアリスムの流れに位置づけられるレオノーラ・キャリントンレオノール・フィニといった作家たちの作品を想起させるものがあるのも宜なるかな
本展タイトル『まなざし仮面』の英訳は"Masked Gazer"とされているが、出品作に《私は洗面所に隠れた》があるように、"Masked"には「隠れた」の意味がある。《青くて自由な花》、《青い部屋》、《高原》などで描かれる植物が平行植物だとすれば、その知覚の不可能性に「隠れた」を読み取ることもできよう。そして、「隠れる」とは死である。眠りは仮死である。作者の描く鳥に鳥葬を、舟に補陀落渡海を、というように葬送のイメージをたぐり寄せることで、現実を超えた領域への接続を見ることもできる。だが"memento mori"こそ理性的な、人間ならではの認識だ。《青くて自由な花》に描かれる平行植物(?)のように、理性に根ざしながら、非現実に思考を羽ばたかせることで、現実に新たなまなざしを送る者こそ、「まなざし仮面」としての作者なのだろう。