可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『森山大道の東京 ongoing』

展覧会『森山大道の東京 ongoing』を鑑賞しての備忘録
東京都写真美術館〔3階展示室〕にて、2020年6月2日~9月22日。

森山大道の写真展。作者を象徴する野良犬《三沢の犬》と大画面のシルクスクリーン作品を並べた空間、東京をスナップした「ongoing」シリーズの151点と『記録』からの写真群とを紹介する大空間、『Tights』の写真5点を1点ずつ液晶画面に映すカーテンで遮蔽された小空間という3つの空間で構成。

冒頭を飾るのは、《三沢の犬》(1971年)[001]。振り返ってガンを飛ばす野良犬の後ろ姿である。作家には、『犬の記憶』と題したエッセイがあり、そこで若い時分を振り返っている。学校を転々とし、「絵の才能しかない」からと編入した工芸高校の図案化も放蕩して続かず、父の紹介で商業美術家のもとで働くことになった。だが、その頃には既に「すっかり一丁まえの野良犬」と化していて、仕事をサボりがちだったという(森山大道『犬の記憶』河出書房新社河出文庫〕/2001年/p.100-102)。すなわち野良犬は作家の自画像である。この作品と向かい合う、幽鬼のようになサングラスの人物[003]はやはり作者だろう。最初の展示空間の残りの壁面の一方は、アンディ・ウォーホルを彷彿とさせるシルクスクリーンの唇(2018年の『Lips』シリーズから[002])。6点組のモノクロームが9点、唇だけ赤く染めた同様の組の作品が9点あり、108点から成るのは、煩悩を表すためか。残り1つの壁面は『にっぽん劇場写真帖』や『スキャンダラス』の代表作を展示している。
メインとなる空間では、ongoingのシリーズ(2017, 2019, 2020年)が壁面を埋めている。会場の半分をモノクロ作品に、残りの半分をカラーに割り当て、両者を対比している。(モーリス・ユトリロの絵画に通じるものがあるかもしれない?)街行く人の後ろ姿([043]など多数)は作家らしい表現だ。もっとも、後ろ姿以外の、被写体に気付かれずに撮るある種の窃視的表現は、時代の趨勢に従い、人物よりもモノへと移行しているようだ(ショーウィンドウ越しに陳列された下着を撮影した作品[041]など)。銀座でウェディング写真を撮影するカップルをカメラマンの反対側から捉えた作品[028]には、反対側あるいは裏側からの視線が窺える。金網フェンスの向こう側の喫煙スペースの群像を映した作品[054]では、相笠昌義の都市風景を切り取った絵画のように、人物が皆別の方向を向き、視線が噛み合うことはない。健康至上主義によって都市空間から消えゆく存在が、連帯すること無く孤立する様を描くようだ。正面からではなく裏側から、中心ではなく周縁をといった作家の偏頗な視線は、作品に映り込む、片手でカメラを手にした作者の姿([064]、[068]、[135]など)に象徴されている。
マネキンやポスターといったものが人物とともに作家の重要なモティーフとなってきた。冒頭のシルクスクリーンの唇[002]に表されるような、コピーに対する明白な執着がある。数えの二歳で世を去った双子の兄の「リコピイ」としての自己認識があり(森山大道『犬の記憶』河出書房新社河出文庫〕/2001年/p.14, p.20)、そこからコピー独自の価値を打ち立てようという意志が生まれたのだろう。例えばポスターを撮影して作品として呈示するように、あらゆるものに向けられた等価の眼差しは、その意志あってこそである。だが生命はおよそリプロダクションの存在、すなわちコピーなのだ。文化もまたコピーとして伝えられていく。だが社会は、作者のようにコピーの認識を踏まえた上で、対象に対して等価の眼差しを注ごうとするものではない。作家はそのような社会の眼差しを作品化する。新宿の歩道柵の前に佇む互いに繋がりのない4人の女性たち[061]は、別の写真[068]のショーウィンドウに並ぶ4体のマネキンに類する。人間とマネキン(モノ)との間の垣根が溶解する。それは、ポスターや看板、オブジェと人間とが写真という同一平面に併置されてしまうという物理的な現象以上に、視覚メディア中心の社会における現実を表すものだろう。今回の展示でも、網や網目([054]他多数)、網点[059]を切り取った写真は繰り返し現れる。網点は、人も物も関係なく世界の全てを印刷物へと変換してしまう装置である。人は印刷物を通じて世界を知ってきたのだ。そして、網点に代わる網がインター「ネット」である。『Tights』シリーズの写真[163]-[167]において、身体を隈無く覆う網タイツのように、インターネットが世界を覆い尽くしていく。そこでは現実が網タイツとして表象するのではなく、網タイツが現実である。これらの写真([163]-[167])が液晶モニターで表示されているのは、インターネット=現実を表すためであったのだ。