可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 海野由佳個展『わたしの範囲と、それが変わること』

展覧会『海野由佳「わたしの範囲と、それが変わること」』を鑑賞しての備忘録
MEDEL GALLERY SHUにて、2023年6月20日~7月2日。

主に女性の身体をモティーフとした絵画で構成される、海野由佳の個展。

紺のビキニに紺のパンプスを合わせた、豊かな胸と腰を持つ引き締まった身体の女性6人が横一列に並ぶ《Stand in a line-1》(1167mm×910mm)。灰青の明るい部分と濃紺の壁の部分からなる背景は抽象的だが、ステージに立ってポーズを決めている彼女たちにスポットが当たっている場面と見受けられる。画面の中心に向けて、左から3人目と4人目の女性がやや向かい合うような姿勢をとっている。右から5人目の女性が手を左側の女性の脇腹に添えている。右端の女性が画面から食み出して、《Stand in a line-2》(1167mm×910mm)へと画面が連続する。こちらの画面にも同様の水着姿の女性3人が、6人との間にやや間隔を開けて並んでいる。全身像でりながら、画面の上端で頭部がカットされ、女性たちの顔は窺えない。左側の6人に対して、右側の3人が僅かに奥に立つように見えるのは、画面下部の濃紺の部分がやや幅広く描かれているからであろう。「いずれ菖蒲か杜若」を持ち出すまでもなく、光琳《燕子花図屏風》を下敷きにしていることは明白である。紺のビキニやパンプスは、群青の燕子花の花に相当する。だが華やかな女性たちの舞台は、金地の《燕子花図屏風》に比して、いかにも暗い。輝く笑顔を見せているであろう女性たちの頭部を大胆に画面から切り離してしまっているのも、意匠の問題というよりも、ルッキズムに対する批評性を盛り込んでいるためではなかろうか。

どんな体に生まれて生きていくかは選ぶことができません。
望んだ訳でもないその体の、性別、姿形、境遇に囚われながら生きていくしかないこの理不尽に向き合うことが、人の存在を描くことの大切な部分なのではないかと感じています。(本展に向けた作家のステートメントより)

作家は、所与の身体に囚われて生きる理不尽に対して問題意識を有している。自己の身体を他者や外界と切り分けるのが、皮膚であり、顔である。

 境界はさまざまな形で存在している。私たち自身を環境から隔てる一番身近な境界は、身体の境界である。私たちの身体は、皮膚という境界によって周囲の環境から隔てられている。私たちの身体は、皮膚が内部と外部を分けることによって成立し、皮膚を維持することで私たちの同一性は守られる。一見すると、皮膚は、その下にある筋肉や骨、脂肪、とりわけ内臓を保護する役目を果たしているように思われる。もちろんそれは正しい。しかし筋肉や脂肪、骨、内臓が生存するために機能しているとすれば、そして生存とは世界と自己との境界を維持することであるなら、それらの機能が維持しようとしているのはかえって皮膚なのである。
 興味深いことに、しばしば心と同一視される脳は、発生上も機能上も同じ起源をもっている。それどころか、脳をもつ生物が限られているのに対して、広義の皮膚を持たない多細胞生物はいない。境界を作り出す皮膚という器官は、生物にとってもっとも根源的な臓器であり、脳はその変形である。しかも、臓器ですら境界だとも言えるかもしれない。腸の内壁は、体内に入ってきた外部のものと接する体内の境界だからである。内臓は、私たちの内部に秘められた本質であるように思われるが、じつは外部とつながることにその役割がある。私たちの身体は外壁と内壁に二重の接触面を持つ管である。
 顔は、象徴的な意味においても実質的にも、私たち自身を代表する身体の表面である。顔には神経が集中し、外界との接触に敏感である。顔は自己と世界だけではなく、自己と他者を区別する特殊な境界である。私たちは、満員電車で身体がふれあうことを許しても、顔が接することをひどく嫌う。私たちは他者に自分の臓器を提供はしても、自分の顔の提供はしない。他者と肌を合わせる一体感はあっても、顔はどこまでいっても他者と重ね合わせられない。顔は自己と他者を隔てる象徴的な境界である。興味深いことに顔も内臓の延長である。私たちの身体は、さまざまなレベルでの境界からできている。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.10-11)

同じ衣装に身を包んだ複数の身体を描きつつ、個々の顔を省いたのは、「自己と他者を隔てる象徴的な境界である」顔を曖昧にする意図に基づくものと考えられる。
あるいは、見る行為そのものの性格の再考を促す意図があるのかももしれない。見る行為とは、モーリス・メルロ=ポンティが画家のアンドレ・マルシャンの言葉を引き合いにして「世界の外に立つデカルト的な純粋主観には絵画が描けないと訴えたように、身体の存在を前提にしている(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.53-59参照)。

 描こうとする対象に見られなければ、画家はその対象が息づいている世界に入れない。よって、私が見られるためには、私は精神ではなく、身体でなければならない。私はが見られるということは、私が可視的であることである。私たちは対象から反射してきた光を浴びることで見る。逆に、他者の眼は、私から反射する光線を使って見る。他者が私を見るとは、他者が私の身体から反射した光を浴びることである。他者はさまざまな場所から自分のところに集まってくる光、すなわち、包囲光を浴びている。私が周囲のどの場所も見ることができるということは、それらすべての場所から光を浴びているということである。その可能な視線である包囲光の一部に眼を向けて、選択的にその光を眼に受ける。他者はやってきた光線に眼を向けることによって私を見る。「樹木が自分を見ている、私は樹木から見られている」と感じることとは、樹木が私の身体から反射した光を浴びていることを知覚することである。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.10-11)

1つには、水着の女性から見られる体験を排除することで、見ることが元来有している双方向性を浮き彫りにしていると考えられる。換言すれば、一方的に見ることの歪さを明らかにする。また1つには、身体が受けるとともに発する包囲光のやり取りが介在しないモニター越しの鑑賞のメタファーと解される。顔の無い女性群像は、樹木≒燕子花≒水着の女性から見られる体験を排除することで、場を共有しないで見る状況の歪さを訴えているようにも考えられるのである。

《Between sheets》(727mm×910mm)は、ベッドで俯せになった裸の女性を描いた作品。右下の枕に頭を乗せた女性の後頭部(髪)、そこから画面中央左側に背中、臀部が見える。女性の裸体と同じくらい布団が盛り上がって画面の4分の1ほどを覆い、右奥にはソファが見える。特徴的なのは、水面のように波打つシーツに女性の皮膚が映り込む様が、恰も女性の身体(皮膚)がシーツに溶け込んでいくように蛇行した描線の絡み合いによって表現されている点だ。やはりベッドに横たわる女性を手前の太腿から奥の頭部に向かって描いた《Throw oneself down》(910mm×727mm)では、のたうつ描線はカラフルな渦ともなり、シーツや布団と皮膚や腸などの器官が浸潤し合っている。そして、もはや周囲に反射するもののない裸体女性の立像《Body》(727mm×910mm)では、周囲の空間に、女性の身体=ミクロコスモスの内臓が宇宙=マクロコスモスへと拡散していくように描かれ、なおかつ左右の人物へと接していく。

 自己維持するための境界は堅牢な壁ではありえない。いかなる堅牢な壁も海洋惑星の流動に逆らうことはできず、その内側を海と空気の威力から守ることはできない。複雑で変動に満ちた海洋惑星では、大地ですら浸潤を免れない。一見すると大地が固定しているように見えるのは、海や風からの浸食に動的に抵抗しているからである。砂浜は引き潮で削られていくが、それがなくならないのは、川から砂が運ばれ続けいるからである。安定性は、反作用と抵抗の結果でもあって、単なる受容の結果ではない。自己維持は積極的・創造的にしかなしえない。大地も、海と同様に、生成し運動している。
 したがって、ウェザー・ワールドで、自己を維持するために必要なのは、壁ではなく、柔軟でダイナミックな適応力である。。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔筑摩選書〕/2014/p.202-203)

作家の描くのは、「柔軟でダイナミックな適応力」を有した身体である。