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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 西川由里子個展『視界は反復横跳び』

展覧会『西川由里子個展「視界は反復横跳び」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY KTO 新宿にて、2024年4月2日~27日。

瓶をモティーフとした絵画で構成される、西川由里子の個展。

「目路も遙かな景」シリーズ3点(各1620mm×970mm)は、染色した画布を縫い合わせ、なおかつ描画だけでなく写真の転写も行った画面に、光の反射や周囲の映り込みを色取り取りの縦の描線により表現した瓶1本を中央に表わした絵画である。《目路も遙かな景 Ⅱ》では、染色の際にできた皺が表情を作る緑や藍の布が画面を切り刻むように組み合わされ、木の梢、街角、港などの写真が転写されている。他の2点に比べ太めの瓶は、橙や黄などの明るい色を中心に青や緑などのが混ざる、瓶の形に沿った縦方向の線によって表現される。瓶の底から右上の方向に延びる影は幅広い筆のストロークの組み合わせでできている。《目路も遙かな景 Ⅰ》は桃色と紫の画面に落ち葉や街角の景色が部分的に転写され、肩の位置の高い瓶が緑の影を延ばす。《目路も遙かな景 Ⅲ》では茶や黄土色の画面に空や公園や街角の写真が配され、肩の位置の低い瓶の影は青い。このように「目路も遙かな景」シリーズ3点は、いずれも染色の模様、写真、瓶の色取り取りのストライプ、影のストロークと様々な要素で構成されている。それにも拘わらず、背景のくすんだ色味のためか、画面中央に置かれた瓶の存在が重しのように働くためか、不思議と落ち着いた雰囲気を保っている。
瓶を描いた画家としてジョルジョ・モランディ(Giorgio Morandi)が知られるが、瓶は屋内で台の上に置かれている。「目路も遙かな景」シリーズの瓶も、瓶底から延びる影によってどこかに置かれているようだが、瓶底が設置される場所は曖昧にされている。曖昧であるのは、複数の時空を跨ぎ越すからだろう。異なる時空間を表わすのが、複数の布を縫い合わせて作られた画面とそこに転写された写真とである。
ところでルイス・キャロル(Lewis Carroll)の『不思議の国のアリス(Alice's Adventures in Wonderland)』をドラッグ文学と解釈する向きがあるという。主人公のアリスがキノコを食べて体が伸び縮みするのはキャロル自身の幻覚キノコの体験に基づいているというのである(河西瑛里子「妖精とキノコ、魔女とキノコ、メディウムとしてのキノコ」『ユリイカ』第54巻第6号/2022/p.176参照)。

 危険だが美しい。気味が悪いが役に立つ。このように、キノコ(菌類)には両義的なイメージがつきまとう。さらにかじれば、もしくはその輪の中に足を踏み入れれば、この世界を離れ、別世界に飛び込ませてくれるかもしれない。ゆえに、キノコ(菌類)とは、2つの世界の境界の象徴であり、両者を媒介する生物なのである。(河西瑛里子「妖精とキノコ、魔女とキノコ、メディウムとしてのキノコ」『ユリイカ』第54巻第6号/2022/p.176)

不思議の国のアリス』の冒頭でアリスが穴に落ちた先で目にしたのは小瓶であった。アリスは小瓶の飲み物によって体が小さくなる。キノコと瓶とは同じ機能を果している。すなわち、キノコ同様、瓶もまた「この世界を離れ、別世界に飛び込ませてくれる」存在なのだ。

 (略)われわれは毎日、同じ道を通り、同じ庭を横切る。そして、いつも夕方になるとわれわれの目は、レンガと都市の時間からなる、同じ赤っぽい壁に出くわす。しかしある日突然、道は別世界に通じ、庭は誕生したばかりであり、くたびれた壁が記号でおおわれる。それらはわれわれがそれまでに見たこともないものであり、その有り様――その圧倒的な現実性――はわれわれを驚嘆させる。そして、他ならぬその緊密な現実性がわれわれに疑問を抱かせる――事物はこうしたものなのだろうか、もっと別の現われ方をするのではなかろうか? いや、われわれが初めて見ているこれは、すでに以前に見たものなのだ。どこか、おそらくはわれわれが1度も行ったことのない所に、その壁も、道も、庭もすでにあったのだ。こうして、奇異感に次いで郷愁が湧いてくる。何か記憶が蘇るような気がして、あそこへ、つまり、事物が常にこの上なく古い光を浴びていながら、同時に、いま誕生したばかりの光に照らされているような所へ帰りたくなる。われわれもまた、そこからやって来たのである。一陣の風が額を打つ、われわれは陶然として、静止した午後のただ中に漂う。われわれは別世界の人間であるといった感覚を得る。それは回帰する〈前生〉なのである。(オクタビオ・パス牛島信明〕『弓と竪琴』岩波書店岩波文庫〕/2011/p.223-224)

「目路も遙かな景」シリーズは、それを眺める鑑賞者を画中へと跳び込ませ、瓶と一体化させる、言わば別世界への通路である。繰り返し見てきた景観がその面目を一新する。それは過去への回帰と未来の先取りによってである。

 (略)過去のわれわれへの回帰と未来のわれわれの先取り。前生の対するノスタルジーは来生の予感である。しかしそれは、今であり、ここであり、電撃的な一瞬のうちに溶け合ってしまう、前生と来生である。このノスタルジーと予感は、詩であれ宗教的神話であれ、社会的ユートピアであれ英雄的な壮図であれ、すべて人間の大事業の本質をなすものである。そして、人間の真の名前、その存在の表象はおそらく〈願望〉であろう。ハイデッガーの時間性やマチャードの〈他者性〉、あるいは、自分自身ではないものに対する、人間のあの不断の自己投影は、〈願望〉以外の何であろう? もし人間が、存在しつつありながら、決して完全には存在しえない存在であるとするなら、彼は存在の願望であると同時に、願望の存在でもあるのではないだろうか?(オクタビオ・パス牛島信明〕『弓と竪琴』岩波書店岩波文庫〕/2011/p.228-229)

人間は決して満たされることのない瓶は人間であり、その空虚を満たそうとして行われるのが、此岸と彼岸(別世界)との反復横跳びである。