展覧会『南条嘉毅個展「senne(センヌ)」』を鑑賞しての備忘録
アートフロントギャラリーにて、2023年10月7日~22日。
市原湖畔美術館で開催された『湖の秘密-川は湖になった』(2023)に出展した《38m―ネトの湖――》を再構成した、浚渫土(ネト)を敷き詰めた展示室に展開する民具(卓・椅子・大八車の車輪)と映像によるインスタレーション。タイトルの「senne(センヌ)」はポーランド語で「眠る」または「夢の中」を表わすという。別室では、木箱に収めた羅針盤による立体作品《senne 12》や、インスタレーションの構想をデザインした絵画が紹介される。
旧山手通りに面した展示室のガラス壁面には額縁のような白い線が描き入れられ、人と車の行き交う交差点を映し出す鏡であるとともに、入れ籠状に展示室内の壁面に飾られた額縁の付いた鏡などを透かして見せる窓でもある。
さらさらした浚渫土が敷かれた展示室の中央には、シートが掛かった四角いテーブルと、座のない(穴の開いた)椅子が置かれている。大八車に使用されていた大きな鉄の輪が隅に3つ吊され、ときとして互いがぶつかり合って音をたてる。ガラス壁面の向かいの壁には様々な大きさと形状の額縁に収められた鏡が12枚が架かっている。鏡には水面や草木の映像が映し出されては消える。室内には時に夕陽のようなオレンジ色の光が射し込み、あるいは夜の帳が下りるように青い光に包まれる。
会場の床に敷かれた浚渫土(ネト)は、川が湖に運び込んだものである。底へ流れ落ちるネトとは、砂時計のアナロジーである。否、砂時計そのものではないか。不定形の鏡=映像が12枚並べられるのは、不定時法あるいは十二支、いずれにせよ時間である。コンピューターによってプログラムされた大八車の鉄輪が定期的に響かせるのは、無論、時の鐘である。それでは、展示室の中央に鎮座するテーブルは、一体何なのか。ここではテーブルの意義を、ルイス・キャロル(Lewis Carroll)の『不思議の国のアリス(Alice's Adventures in Wonderland)』、とりわけ第7章で描かれる「気違いのお茶会(A Mad Tea-Party)」に求めてみたい。
そうして問題の「マッド・ティー・パーティー」なのである。何十人ものキャロル・イラストレーターが描き続けてきたこの大型のパーティー・テーブルには不思議に円卓がない。「マッド」とされる帽子屋と三月兎、いつも半覚醒状態のネムリネズミがコーナー(隅っこ)にひと塊というので、たしかに丸い卓ではないらしい。円卓には「隅」が存在しないのは、第5章の芋虫の載るキノコに右か左か「サイド(側)」という概念があり得ないという逸話で既に明らかだ。多分このキノコもテーブルの範疇に入っている。
問題は第7章の核心的モティーフは時間、そし時計(盤)をめぐるパラドックスであるとして、アリスを含む4人(4匹?)のパーティー参加者がぐるぐると席を替えつつ回転するところをみても、このテーブルそのものが丸い時計の文字盤のアナロジー〔引用者補記:を〕形づくっているという読み方は間違っていないだろう。消化器系のアナロジーという説もある。
キャロルは既にトポロジーの基本感覚を持つ数学者だった。位相幾何学である。この定性幾何学によれば、切断といった過激事態がない限り、長方形も円も1本のくねくねしたライン(線)ということでは何のちがいもない。別にこのテーブルが円卓か四角な卓か、こだわることはないのかもしれない。
が、そうはいかない。なぜならイメージ、というかアイコンという点からしても、この中心(12章の丁度真ん中、ともう1度言っておこう)にあるテーブルは全体として時計文字盤の12が1にぐるりと循環していく形を上から下まで再演し続ける物語の、その「フィギュア(かたち)」を反復していなければならないからだ。問題はむしろ、そうやって本来円形の卓であるべきものが、ここまで徹底して長方形、というか矩形として現前するのは何故かということのようである。
(略)
辞書を引いて、でもなければ平生引いたこともないはずの"table"の名詞項を引くと、どうか。しかもクラウス・ライヒャルトによればキャロルのノンセンス出現のための大きな手掛りのひとつとなった有名な『ロジェのシソーラス(宝典)』(これも1851年だ)で引く。ABC順で引かずいわば主題で引くこの画期的な同義語辞書で編成・構成・構造化という意味の"table"を当たると、びっくりするほど「キャロル的」なキーワードの連続・蝟集ぶりである。すべてキーワードを思って、"table"が出てくるまで逐一ながめられることを勧める。要するに、おなじみの「家具」のひとつとして周知の「テーブル」とは少々無縁の、見慣れぬ「テーブル」の姿が見えてくる。列挙、分類、命名を意味する一大意味系列。『言葉の物』のフーコーが成立期(1660年代)のロンドン王立協会にさぐり当てた「タクシノミア(分類的知性)」の姿、と言っても良い。(略)
(略)
キャロルの却って簡素さが目立つウサギ穴の内壁の模様は原作では「食器棚と本箱、あちらこちらにマップ(地図)とピクチャー(絵)が木釘で止められているとのみある。この4点、もはや言うまでもなくヴィクトリア調〔引用者註:ヴィクトリア朝?〕室内装具のミニマル・エッセンシャルズでありながら、つまりは同時に19世紀半ば、いわゆる「エステティック(美的)インテリア」大流行の入口部分に到達した200年に及ぶ「表象 représentation」の標識でなくて何か。
念押しするかのように直後の第五の小道具は直裁〔引用者註:直截?〕にも「オレンジ・マーマレード」と書いたラベル(!)なのであり、しかも当の瓶の中身は「エンプティ(無)」とあるから、自体はもう作品のっけから表象論の範疇にある。少女はきんだいという名のフォール(落下)空間にアッシャー・インされたことになるのだ。なにしろ子供相手という建前から描写は極力省くということながら、描写(art of describing)をうむ表象の構造そのものをキャロルは早々と剔抉しプロブレマタイズ(問題化)してみせる。作品の有名な冒頭部にこうして既に世界をテーブルの周囲に集め、整序してみせる構造はちゃんと姿を現わしている。『ロジェの宝典』"table"の直接の前後に並ぶ「本」「地図」「絵」の語に改めて驚くべきかもしれない。そこに分析/分解狂のキャロル(ダッドソン)が忽ち翻って無類の秩序マニアと化す構造を見るところから論を起こすのが、いまだに最高のキャロル論たるエリザベス・シューエルの『ノンセンスの領域』(1952)である。家具調度がすでにして秩序の記号である(キャロル、アリスが繰り返す「タイディ・ルーム(きれいなお部屋)」を思い出そう)。中でも棚や地図・絵は秩序そのものであり、テーブル効果の最高の表われたちばかりである。といううか、ここでの「隠れたる神」がテーブルなのである。隠れたテーブルを一貫して探し、露わなテーブルたちとつなげる興味津々の作用が即ちキャロルであり、『不思議の国のアリス』なのだ、とシューエルのノンセンス論は言う。(略)
(略)
少女アリスは退屈していた、と物語は始まる。(略)
(略)
こだわりたいのは、この死に至る倦怠(tedium vitae)から逃げられるかもとありすが瞬間的に思うのは近くにあるデイジーを摘んでデイジー・チェインをこしらえること、という点だ。姉は本を読み続け、妹は周りの植物に目をやっている。読書、そして植物学への耽溺、とりまとめればこの2つが当時教会が中産・上流の婦女子に公認した唯一究極の「ラショナル・アミューズメント(理にかなう娯楽)」だった(略)
問題はこれほどまでに自動化した博物学の異様なブームだ。それが(少なくともある程度富裕な層の)少年少女たちの世界に入り込み、しかも自動化していたことの確認。そのためだけでも衝撃的な問題の冒頭パラグラフは一方で、「絵も会話もない本」など「何の役に立つ」のかと問うアリスの修辞疑問で終る。この短いパラグラフはまさしくアルパであり、オメガである。そう、「絵」も「本」もこれ以上ないテーブル象徴なのだし、「会話」なんてそもそもがテーブルの存在なくしては生まれることも発展することもなかったライフスタイルなのだ。そしてそもそもアリスが一貫して繰り返す「役に立つ(useful)」という発想自体が、テーブルの上に並べて計量し、比較する平面化・表層化の技倆におのれの出発を見た「近代 Modern」そのものの常套句になり上がった常套句ではなかったのだろうか。
平面化する文化が必ず行き着くスプリーン(倦怠)。その倦怠が必ず招くワンダー(驚異)。この2つは飽くこともなく循環する。地上と地下、現実と夢の間の無窮の循環――『不思議の国のアリス』全体でつくるだすこの基調の動きやイメージ生産――は物語第1ページ目にして既に作動している。飽くまで検体が招き寄せるホワイト・ラビットであるのだ。平板に飽きたからの「穴」なのだ、フォール(墜(堕)落)なのである。
(略)
(略)もう1回、第7章「マッド・ティー・パーティー」に帰る。鍵が置いてあるということで意識化されるテーブルを除いて大して目に付くテーブルはないが、お仲間、というかテーブル象徴を通して隠れたテーブルということで何となく意識され始めていたもの――それあればこそ芋虫の載る大キノコもテーブルに見えてくる――が、この第7章で間違いなく意識の最前景に出て来る。このマッドなテーブルをいかにもマッドに描いたウィリー・ポガニーの挿絵を掲げておこう。秩序と社会安定の印たるコミュニケーションが会話のサンス(意味/方向)が中断され、無化され続ける演劇と社会の不条理化というお定まりの議論のこの上ない挿画として引かれる1章だが、その暴力性をちゃんとヴィジュアライズし得ているということでは誰もポガニーの線にはかなわない。問題のテーブルが円卓ではありえず、「加速化」された長方形をしているというイメージはポガニーの一連の絵で不動のものとなった。特にネムリネズミがティーポットに押し込まれる一光景の怖さは中々凄くて、ウサギのイメージも手伝って、穴に落ちるアリスと「穴」に落ちていくネムリネズミのアナロジーにどうしても連想が働く。現にこの景の直後、アリス自身が再び木にできた扉をあけて降下をはじめることで、このアナロジーは有効と知れ、ということは第7章をもって物語は第1章へと一度ミニ循環していくということなのだ。そのひと塊の行程が最後に、世界文学史上もっとも有名なテーブルに行きついたことの意味は大きい。前半(1~7章)において物語からは、「隠れた」テーブルがぐいっと顕在化した。秩序の象徴たるテーブルが今やマッドな宇宙軸と化して、冥府降下を促す。(高山宏『テーブル・コーディネーター 『不思議の国のアリス』の近代」『ユリイカ』第47巻第3号(通巻657号)/2015/p.291-302)
テーブルに懸けられたシートはテーブルクロスではなく、テーブルの変形過程の表現と解すべきである。位相幾何学を梃子に、恰もサルバドール・ダリ(Salvador Dalí)の代表作《記憶の固執(La persistencia de la memoria)》の溶ける時計のように、退屈な秩序を象徴する平板で四角いテーブルは、夢を象徴する円形の時計盤へぐにゃぐにゃと変容する。何故、そんなことが起こるのか。陽が沈み夜の帳が下りるからだ。座の抜けた椅子が、アリスがウサギ穴に落ちたように、鑑賞者を眠り(senne)の世界へと落とすのだ。あるいは鏡は、現実を映し出すとともに、水面となって、鑑賞者を過去の広がる水底へと落とし込む。それは大八車の鉄輪が象徴するように、永遠と繰り返されるだろう。
アリスの体験した出来事の数々は夢の中(senne)の出来事であった。鑑賞者もまた、夢の中(senne)へと入り込むのである。