可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 ボスコ・ソディ個展『GALAXY』

展覧会『ボスコ・ソディ「GALAXY」』を鑑賞しての備忘録
SCAI THE BATHHOUSEにて、2023年9月16日~11月5日。

おが屑を混ぜた素材でごつごつとした地面のような素地を作り、主に黒で覆った画面の一部に紫色の斑点を淹れた絵画的作品5点、金の釉薬を施した大小の球体のオブジェ2点、黄麻布製の袋に1つないし2つの円を描いたシリーズ4点のいずれも無題の11点から成る、ボスコ・ソディ(Bosco Sodi)の個展。

会場は2つの空間から成り、主たる展示空間には、4枚の黒い平面作品(3点が1860mm×1860mm、1点が500mm×500mm)が壁を飾り、金の釉薬を施した大小の球体オブジェが2点、互いに少し距離を開けて床に置かれている。
黒い平面作品は、おが屑を混ぜた素材により凹凸やひび割れのある素地が黒く着彩されたものだ。中央の一番大きい壁の作品(1860mm×1860mm)には黒い画面の中央付近に円に近いモーヴ(薄い紫)が施されている。それに向かって右側の壁にはモーヴの「円」が3つ配された作品(1860mm×1860mm)、同じく左側の壁に設置された作品(1860mm×1860mm)には頭蓋骨を横倒しにしたような形のモーヴの部分がある。もう1つ壁に懸けられた小さな画面(500mm×500mm)の作品には2つの大小の「円」がやはりモーヴで描き込まれている。個々の作品には題名がないが、展覧会には"GALAXY"が冠されていることから、黒い画面のモーヴの「円」は、宇宙空間に浮かぶ天体と捉えることが可能である。モーヴの部分は、黄麻布製の袋の作品に描き入れられた円がはっきりとした輪郭を持つのとは異なり、曖昧に拡がり、あるいはモーヴの絵具が飛び散っている。それは、天体の動き、あるいは光の放散を表わすのであろう。もっとも、天体が浮かぶ宇宙空間を表わしているのなら、何故凹凸や罅割れが目立つ地面のような素地を作ったのか。それは、天と地との反転可能性であり、照応関係を表現するためではなかろうか。
展示室の中央附近には、床には金色に釉薬を施した球体作品が床に置かれている。直径が460mmのものと350mmのものとがある。2つの中心と見れば、太陽系の惑星の楕円軌道が想起される。球体が天体であるなら、それが床に置かれているのは、「上方のものは下方のものに」を示す。黒い平面作品と同様、天地の反転可能性を、延いてはマクロコスモスとミクロコスモスとの照応を示すのであろう。

 密接に相互作用する宇宙の像は、西洋文化にふかく根ざした多様な源泉に由来する。新プラトン主義が強調する「自然の階梯」の考えでは、生命のない物質から超越した一者までの全存在が階層的に結ばれる。アリストテレスは包括的な自然哲学を構築し、運動や原因、性質についての考えを自然の多様な領域に一貫して適用した。占星術や「上方のものは下方のものに」という『エメラルド板』で表明されたマクロコスモスとミクロコスモスの照応のように、星辰の地上への影響という考えは何世紀にもわたって支持され、朝夕や四季の変化、北極星をさす磁石といった事例から自明だと理解された。こうした相互作用は地上の存在と天井の存在を密接に結びつけるが、もっとも強力だったのはキリスト教におけるつぎの観念だろう――全知全能で摂理ある唯一の創造神という考えは、被造物の統一性に反省され、世界が唯一の調和ある総体だということを示す。ギリシア語の「コスモス」は、世界が完全に独立している唯一の「知性」から生まれた高度に秩序のある総体であることを意味する。(ローレンス・M・プリンチーペ『錬金術の秘密 再現実験と歴史学から解きあかされる「高貴なる技」』勁草書房/2018/p.264-265)

金色の球体は、天体であると同時に、人間でもある。2つに別れているのは、男女を表わすのかもしれない。

 錬金術を支える思想を今いちど振り返ると、金ではない金属を金に変えることができるのは、それらがもとは同じ質量によって組成されているとの考えがあることによる。金以外の金属も、単純化すれば、同じ第一質料から生じた四大元素のバランスと、さまざまな本性の作用によって諸金属の形相をとっているにすぎない。金はそれらが高純度でかつ正しいバランスにある状態にある。言い換えれば、もともとはこうした完全な状態にあった金が不純な状態で分離したものが現在の諸々の金属にほかならない。錬金術とはまさに、それら諸金属をもとの「完全で単一な状態」たる金へと戻す作業を意味している。そこへ、両性具有体たるプラトン的な「アンドロギュヌス」の思想が結びつく。
 人間の性には3種あった。すなわち現在のごとくただ男女の両性だけではなく、さらに第三のものが、両者の結合せるものが、在ったのである。(中略)かくて彼らは恐ろしき力と強さを持ち、その気位の高さもまた非常なものがあった。彼らは神々に挑戦するに至ったのである。(中略)ゼウスは人間を真二つに切った――。(久保勉訳)
 プラトンが『饗宴』でこのように語るアンドロギュヌスは、男女の両性具有体であり、髪に挑もうとするほどの「完全体」だった。その傲慢さがゼウスの怒りに触れ、アンドロギュヌスは、男と女に二分されてしまう。だから男女はおたがいもう一方の性を求めるのだ、という説明を耳にしたことのある方もおられるだろう。
 彼らアンドロギュヌス体を「原初の人間(=完全なる状態)」とする観点からすれば、もともと完全なる金が劣化分裂して現在の諸金属となり、それらを「原初の状態(=金)」へと還元しようとする錬金術と、いかにも構造を共有するように見えたに違いない。そこで人々は、分裂して劣化した現在の状態の人間をも、錬金術的作業によってもとの「完全なる状態の人間(=アンドロギュヌス体)」へと戻すことができると考えたのである。(池上英洋『錬金術の歴史 秘めたるわざの思想と図像』創元社/2023/p.213-214)

そして、球体が焼き物であることに着目すれば、そこには焼成変化、すなわち化学がある。

 土偶は、旧石器時代縄文時代を連続させるとともに、そこに非連続の飛躍をもたらす。旧石器時代の「ヴィーナス」のほとんどが骨製(骨彫)にして石製(石彫)であるのに対して(ただい、粘土製のものも発見されてはいる)、縄文時代土偶は、土器と同じく、精巧な「焼きもの」として造られていたからだ。渡辺仁は『縄文式階層化社会』のなかで、こう述べている。土器製作の技術とは、「錬金術」に匹敵するほどの複雑で高度な物理的かつ化学的な工芸芸術の精華である、と。自然の環境のなかから粘土を見出し、精錬し、造形し、焼成し、半永久の作品として残す。可塑性に富んだ粘土は、さまざまな形態にして装飾、さまざまな文様にして装飾を可能にした。(安藤礼二『縄文論』作品社/2022/p.211)

化学は錬金術の後裔であり、球体に対する金の施釉からも錬金術の言及と捉えるべきである。

 錬金術の理念とキリスト教を関連付けるためのモデルとして、マクロコスモスとミクロコスモスはとりわけ親和性が高い。すでに述べたように、どちらも神による被造物のなかでもいわば最も神に近い(純度の高い)存在であり、人の魂をより高次の天上の世界へと高める錬金術は両者を相似の関係に置く。どちらも同一の想像主による作品で、同じ質量から生まれ、形相もまた同じデザイナーによってデザインされたと言えばわかやすいだろうか。(池上英洋『錬金術の歴史 秘めたるわざの思想と図像』創元社/2023/p.257)

黄麻布製の袋に1つないし2つの円を描いた作品が展示されている。作家は麻が古くから聖人が身につけた素材であったことに言及しているという。そこには麻袋が象徴する人間(=ミクロコスモス)と、描かれた円が象徴する天体(=マクロコスモス)とがあり、聖人を介して、キリスト教へと連関する。
「GALAXY」は、「完全で単一な状態」への志向の表現と解される。