可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『アンダーカレント』

映画『アンダーカレント』を鑑賞しての備忘録
2023年製作の日本映画。
143分。
監督は、今泉力哉
原作は、豊田徹也の漫画『アンダーカレント』。
脚本は、澤井香織と今泉力哉
撮影・照明は、岩永洋
録音は、根本飛鳥。
美術は、禪洲幸久。
装飾は、うてなまさたか。
衣装は、馬場恭子と藤原千弥。
ヘアメイクは、寺沢ルミ。
音響効果は、勝亦さくら。
リレコーディングミキサーは、浜田洋輔。
編集は、岡崎正弥。
音楽は、細野晴臣

 

6月。銭湯「月の湯」。昼間、湯を張った浴槽の縁に、関口かなえ(真木よう子)が1人腰掛けている。1ヵ所空けられていた窓から入り込んだアマガエルを窓台に見付ける。かなえはカエルを手にしてじっと眺める。
かなえが入口に貼ってあった「都合よりしばらく休業致します」と書いた貼り紙を剥がす。
営業を再開した銭湯に、かつての常連たちがポツポツやって来る。店空けたんだね。良かったじゃない、かなちゃんの旦那さん帰って来て。違うのよ。番台の木島敏江(中村久美)がその話をしないようにジェスチャーする。それでも風呂場では常連たちがかなえの夫・関口悟(永山瑛太)を話題にしている。銭湯組合の旅行先で蒸発したんだろ。夫婦仲良さそうだったけどな。かな坊、あれで結構キツいからさ。
番台にいたかなえに敏江が交代するから食事を取るように言う。煮物チンしといたから。さすがに今日は少ないね。早く閉めちゃおうか。
台所のテーブルで1人食事を取るかなえ。栃木県の山中で男性の白骨化した遺体が発見されたというニュースがテレビで報じられている。かなえはテレビのスイッチを切る。
番台前に置かれた椅子では、近所の煙草屋の田島三郎(康すおん)が1人居残って漫画を読んで笑う。家じゃないんだよと敏江が三郎に帰宅を促す。カナ坊、お休み。三郎が出て行くと、かなえは後はやっておくからと敏江にも上がるように言う。じゃあ、甘えちゃおうかな。戻って来るかな…。かなえの洩らした不安に悟の話題かと言葉につまる敏江。…お客さん。かなえが気にしていたのは客のことだと分かる。戻るわよ、すぐ。
かなえが1人で浴場の床にブラシをかける。作業を終え、浴槽の縁に腰をかける。かなえはゆっくりと背後に倒れ、そのまま湯の中に沈んでいく。
朝。犬が吠える声で目が覚める。うるさいなあ。眠い目を擦りながら居間のガラス戸を開けると、裏庭で飼っている犬「クラ」の傍に男(井浦新)が立っていた。誰? 堀です。何度もチャイムを鳴らしたんですけど、反応が無かったので…。銭湯組合の大村さんのご紹介で来たんですけど。寝間着代わりののびたTシャツで出てきたかなえは、胸元を気にする。
居間に上がってもらい、着替えたかなえが受け取った履歴書に目を通す。免許・資格欄には防火管理者危険物取扱者・ボイラー技士の記載がある。本当にうちでいいんですか? 大村さんからも聞いたと思いますけど、一時的な採用で。どうせすぐ分かっちゃうでしょうから言っておきますけど、共同経営者である私の夫が失踪して閉めてたんです。常連さんからの熱い要望で再開はしたんですけど。…旦那さんが戻ってくるまでということですか? 先のことは何も決まってないんです。これだけの資格をお持ちならうちでなくてもと思って。…あの、窯を見せてもらっていいですか?
かなえが堀を窯へ案内する。薪ですか。ええ。かなり灰が出るので2日に1回は掃除します。薪割りは音が出るので18時くらいまで。火はいつ頃入れるんですか? 今、お昼なんで、もうすぐですね。あの、今日このまま働いても構わないですか? え? …よければ、ですが…。かなえは成り行きに任せ、堀に働いてもらうことにする。あの、ひとまず部屋に荷物置かせてもらってもいいですか? ああ。住み込みの募集と聞いてきたんですけど…。昔はそうだったんですけど、今は…。あの、あそこの部屋は? 父の代の職人さんが職人さんが使ってた部屋で…。
あの人、ここに住むわけ? 番台で敏江がかなえに確認する。アパートが見つかるまでね。男と女が一つ屋根の下に住むわけでしょ? 敏江が堀が住み込むことを懸念する。そのやりとりをちょうど男湯の作業を終えて出ようとしていた堀が気にして動けず聞いてしまう。
かなえと堀とで浴室の床を磨き終る。1日の流れはだいたいこんな感じです。後はお風呂で汗を流して下さい。
かなえが首まで湯船に浸かる。女湯にかなえ、男湯に堀だけの銭湯は静かで、ちょっとした音が全てお互いに聞こえる。壁の向こうで堀が風呂から上がり、扉を開けて出ていく音がする。
かなえは水の中に沈む夢を見る。
朝。かなえは食器棚のガラスに向かって髪の毛を直す。台所でかなえが出汁を取った鍋に味噌を溶く。
堀さーん。ロフトのような職人の部屋に向かって声をかけるが堀の返事はない。家の中を探すが堀の姿は無かった。居間の廊下に出たところで、堀が裏庭に入って来た。手にはレジ袋を提げている。朝ご飯、作ったんで。良かったら一緒にと思って。頂きます。堀はクラの頭を撫でる。すっかりクラは堀になついていた。
居間のテーブルに、鮭の塩焼き、卵焼き、味噌汁が並ぶ。向かい合って坐ったかなえと堀が食事をとる。あの。同時に声を挙げた2人。堀はかなえから話すように言う。お代わりいります? 頂きます。堀さんは何でした? 朝は自分で用意しますから、お構いなく。1人も2人も手間は変わらないんで。それに堀さんがアパート見つかるまでですし。早く探します。そういう意味じゃ…。
食事を終えたかなえが新聞に目を通す。記事になる自殺とならない自殺って何が違うんですか? …有名な人か、理由が特殊か…。死ぬ理由に特殊かどうかってあるんですか? …報道仕切れないということもありますかね。1日100人近くって聞いたことがあります。報道されない方が多いんだ。奥さんは死にたいと思ったこと、ありますか? …うーん、どうかなあ、あるのかな…。ごめんなさい、分からないです。つまらないこと訊きました。洗っちゃいます。置いといて下さい。洗っちゃいます。堀が食器を片付ける。
堀が流しで食器を洗う。
7月。三郎の煙草屋に堀が立ち寄る。おはようさん。ピース下さい。はいよ。ちょうど小学生の登校時間帯で、近くを小学生たちがぞろぞろと学校へ向かっている。堀は小学生たちの列を眺める。
かなえ! スーパーの鮮魚コーナーにいたかなえが声をかけられる。やっぱかなえだ。ベビーカーを押す眼鏡の女性は菅野よう子(江口のりこ)だった。眼鏡かけてて全然分かんない。家、この辺だっけ? 旦那のお義母さんのとこ来てるの。誰の子? 私の子に決まってるでしょ! 名前は? 町蔵。噓、公ちゃん。公平の公ちゃん。

 

関口かなえ(真木よう子)は、1年前に父を亡くし、夫・関口悟(永山瑛太)と2人で銭湯「月の湯」を切り盛りすることになった。だが悟は銭湯組合の旅行先で失踪してしまう。田島三郎(康すおん)ら常連の要望に応えて、木島敏江(中村久美)に手伝ってもらいながら営業を再開したところ、銭湯組合の大村忠史に紹介された堀隆之(井浦新)が住み込みで働くことになった。種々の資格を持つ堀がなぜ不安定な短期採用に応じたのか。堀は何も説明することはない。だが黙々と仕事をこなす誠実な堀に、かなえは程なく心を許す。かなえは、自らと悟と大学のゼミが一緒だった菅野よう子(江口のりこ)と近所のスーパーで偶然再会する。公平を出産したばかりのよう子は子育てを手伝ってもらうべく義母の家を頻繁に訪れるようになったという。悟の失踪を知ったよう子は、夫に借りがあるという探偵・山崎道夫(リリー・フランキー)をかなえに紹介する。かなえが渡した資料では悟のパーソナリティーが全く見えないと零す山崎から、交際4年・結婚4年の悟についてどれだけ分かっているのかと切り込まれ、あなたよりは分かっているつもりだと言い返す。だが、人を分かるってどういうことですか、と重ねて問われ、かなえは言葉に詰まる。

(以下では、冒頭以外の内容についても具体的に言及する。)

かなえが水に沈むイメージが繰り返し表わされる。それとともにかなえが鏡に映る姿もまた繰り返し登場する。
かなえは草の生い茂る池で泣いていると、男が現われて大丈夫だと慰められ、その後その男に首を絞められて水に沈められる、という夢を繰り返し見る。その夢には苦しみと解放感とのアンビヴァレントな感情を呼び起こされる。
かなえが小学生の頃、さなえという親しい友人がいた。ショートカットのさなえは、あやとりで遊んだ赤い毛糸でかなえの髪を縛ると、駄菓子屋のガラス窓に並んで、2人はそっくりだと言った。
そのさなえはいつの間にかかなえの前から姿を消した。

(以下では、ミステリーの内容についても言及する。)

かなえはさなえについての記憶が消えている。
さなえが不審者に池に連れ去られた場面を目撃したが、男からひどく脅されたために、行方不明になったさなえについて何も証言できず終いだった。さなえは池で遺体となって発見された。この出来事がかなえにひどい精神的ショックを与え、さなえに関する最後の記憶が飛んでしまったのだ。
だがシングルマザーの藤川美奈(内田理央)の娘で、銭湯によく遊びに来ている藤川みゆ(大野さき)が行方不明になったことをきっかけに、さなえの記憶が蘇る。
何故、かなえが首を絞められて水に沈む夢にアンビヴァレントな感情を呼び覚まされるのか。それは、さなえに対する罪悪感とともに、さなえではなく自分が殺されていればという想念が実現する夢であったからであった。
悟は幼い頃から噓を重ねてきた。人々は真実よりも心地の良い噓を好むことに気が付いてしまったからだ。だが噓はいずれ破綻する。悟は噓が破綻する度に、生活をリセットしていた。かなえの前から突然姿を消したのもまたそれが理由であった。
記憶が飛ぶトラウマを抱えながら明るく振る舞うかなえと、世間を渡るために噓を重ねる悟。その2人水面=イメージと水底=アンダーカレントとの齟齬という点で、2人は鏡映しとなっていた。それが、鏡像と水に沈むイメージとが反復された理由であった。
この作品を印象付けるのは、カエルである。無論、銭湯に闖入するカエルは、かなえの前に姿を現わした悟であり、堀である。だが何故カエルなのか。
おそらくは芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」を踏まえてのことだろう。古い池は直接的には、カエルの入り込む古い銭湯である。だが、それだけではあるまい。営業終了後の銭湯でかなえが湯船に首まで浸かる。そのとき聞こえてくる、堀が湯船から上がる音。離れた水音とは、過去の水音であり、さなえが水に沈められたときに立てたであろう音だ。さなえの遺体が見つかった池は埋められてマンションが立つ。古池、それはかなえの脳裡には今もありありとその姿を現わすのだ。水の音は、いつまでもかなえの中で音を響かせるだろう。

キャストはいずれも素晴らしい。とりわけ、主演の真木よう子。そして、個性的なヤマ「ザ」キに実在感を与えるリリー・フランキーの凄み。登場シーンはわずかながら、母娘を演じた内田理央・大野さきも目を惹いた。