可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 重野克明個展『或る未亡人の版画コレクション』

展覧会『版画家生活二十周年記念 重野克明新作展「或る未亡人の版画コレクション」』を鑑賞しての備忘録
日本橋髙島屋本館6階美術画廊Xにて、2023年11月1日~20日

版画家Sが、生前、妻に対して、鳩サブレーの黄色い缶いっぱいに詰めて遺した版画や素描を展観するという設定で行われる、重野克明の個展。滑稽で軽妙洒脱な作品が多数並ぶが、版画自体に対する探究が通底している。

《刷り師》(535mm×445mm)は、画面左側に半分ほど覗いた凹版用のプレス機のハンドルを男が両手で回す姿を描いた絵画作品。プレス機は大型で、放射状に伸びる把手のうち3本が見える。男は、そのうち1本を右手で、もう1本を左手でがっしり摑み、左足に体重をかける(右足の踵が浮く)ことでハンドルを回す。無地の水色の壁と黄土色の床との境界が左側に向かって心持ち上がるのは、作家が緩やかな上り坂として来し方を捉えていることを示す。そして、その人生は、プレス機と手を取り合い、ダンスを踊るかのように歩まれてきたのである。室内を青空のような壁と土のような床で表わすのは、屋内・屋外の反転により、版とイメージとの関係を暗示するためだ。そして、画面の一番上に貼られた版画の像主は男の妻であろう。空としての壁の上で世界を照らす太陽として、内助の功を顕彰するのである。
《刷り師》は、版画――そして作家自らの画業――を主題とした絵画である。プレス機でプレスする人物を描いた似た構図の版画作品として、《版画大好き》(360mm×236mm)、《版画スキッ》(171mm×90mm)、《外で刷れ!》(320mm×240mm)がある。版画の特性は「複数性」と「写し」にあり(町田市立国際版画美術館編『版画の技法と表現 改訂第2版』/1994/p.11-12参照)、絵画と版画とにより、版画自体を表現して見せている。

《ペンギンの湯》(356mm×330mm)は、温泉か銭湯か、タイル張りの大きな浴槽に浸かって壁に背を凭せ掛ける女性が、その傍らに闖入したペンギンを眺める場面を描いた版画作品(ドライポイント)である。鳥類でありながら飛べないペンギンは、大地を歩き海を泳ぐ。天と地(海)とが反転しているという点でペンギンは版画の象徴なのだ。すなわち、女性が眺めるのは「版画」なのである。また、人は鏡を見ることなしには自らを確認できないが、鏡映は反転している。女性が眺めるペンギンは鏡であり、延いては彼女自身とも言えよう。そして、女性とペンギンを取り巻くのはタイルであり、タイルが並ぶことで作られる格子である。「格子」は、段差を表わすために角度を変え、また、湯の中で歪む。「格子」は複数性の象徴であり、浴場をテーマとした他の作品だけでなくその他の作品にもネットや背景表現として繰り返し登場する。

 もしもフランス革命が永遠に繰り返されるものであったならば、フランスの歴史の記述は、ロベスピエールにたいしてこれほどまで誇り高くはないであろう。ところがその歴史は、繰り返されることのないものついて記述されているので、血に塗れた歳月は単なることば、理論、討論と化して、鳥の羽より軽くなり、恐怖をひきおこすことはなくなるのである。すなわち、歴史上一度だけ登場するロベスピエールと、フランス人の首をはねるために永遠にもどってくるであろうロペスピエールとの間には、はかり知れないほどの違いがある。
 そこで永劫回帰という考えがある種の展望を意味するとしよう。その展望から見ると、さまざまな物事はわれわれが知っている姿と違ったように現われる。それらの物事は過ぎ去ってしまうという状況を軽くさせることなしに現われてくる。このような状況があるからこそ、われわれは否定的判断を下さなくてもすむのである。どうして消え去ろうとしているものを糾弾できようか。消え去ろうとしている夕焼けはあらゆるものをノスタルジアの光で照らすのである、ギロチンでさえも。(ミラン・クンデラ千野栄一〕『存在の耐えられない軽さ』集英社集英社文庫〕/1998/p.7)

《刷り師》などに描かれるプレス機のハンドルの回転は永劫回帰的であり、版画の複数性、あるいは繰り返しは容易に時間の観念に結びつく。また、《ペンギンの湯》など浴槽を描く作品で歪み――媒質による光の速度の変化がもたらす屈折――が表現されるのは、時間の相対性の暗示だろう。例えば、《ペンギンの湯》の画面の下端を敢て斜めにすることで、女性が脚を伸ばすことが強調されているのは、版を制作し刷ることでイメージが得られるという版画の遅延、時間的な引き伸ばしを表わすものではないか。遅れてくる(速度が遅い)ことでイメージは歪む、だがその「歪み」こそが持ち味なのだと主張するようだ。だから「版画家S」が自ら亡き後の未来を構想するのも、実は「遅れ」の反転という極めて版画家らしい態度と言えよう。現在を未来から発せられる、ノスタルジアの光で照らし出してみせるのだ。