可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 堀聖史個展『スタート、ストップ、メモリー』

展覧会『堀聖史「スタート、ストップ、メモリー」』を鑑賞しての備忘録
HIGURE 17-15 casにて、2023年10月3日~21日。

人や生きもの、植物などのモティーフが綯い交ぜとなった混沌としたイメージの絵画11点に加え、ギターやハープのオブジェが置かれた、堀聖史の個展。

《人形》では、画面左端に手足を縛られたクリーム色の人形――ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)の絵画に繰り返し表わされたような――が失神したような状態で表わされている。その頭部からは噴水のように液体らしきものが噴き出している。朱色の肌を持つためギリシャの赤像式陶器を想わせる、古代の図像から飛び出したような女性が、椅子に腰掛けて人形の頭部を縫合している。彼女の腰の位置に表わされた目鼻によって、人物の横顔が画面全体に重ね合わされている。右下には人の姿をした針山が落ちていて、胸の辺りに待ち針がいくつも刺さっている。人形が縫合という医のテクノロジーによって生かされ(あるいは生まれ)るならば、人形はサイボーグとしての人間を象徴するのではないか。

  ダナ・ハラウェイは、現状をこう認識します。「現代人はキメラとなってしまった。理論的にも実質的にも、人間は機械と生物の混合体と化した。つまり、わたしたちはすでにみなサイボーグなのだ」。この事例は、いくらでも挙げることができるでしょう。そして、ダナ・ハラウェイによると、この現状は未来を切り開く。「性差(ジェンダー)なき世界」を切り開く。それだけではなく、フランケンシュタインの怪物を乗り越えた怪物=サイボーグは、フーコーのいう生‐政治を乗り越えていくに違いない。
  「フランケンシュタイン」の怪物が期待したのと違って、サイボーグは自らの父親の手で復楽園をもたらしてもらえるものとは思っていない。すなわち、自分の創造者がさらに異性の配偶者を創造することで、ひとつの世界を、都市や宇宙を、完成してくれることなど、期待しない。サイボーグは、生物家族をモデルに社会を築くことなど夢見ないし、エディプス神話さえ持ち合わせない。サイボーグは、エデンの園を認識することもない。サイボーグは泥から造られたものでもなければ、塵に還ろうと夢見ることもできはしないからだ。現代世界は「悪」を仮想したい狂躁にかられるあまり、すべてを核の灰塵に帰してしまうような終末を迎えるかもしれない。けれども、だからこそわたしは期待するのである。サイボーグならば、そのような黙示的プロセスじたいを破壊できるのではないか、と」。(小泉義之『弔い・生殖・病の哲学 小泉義之前期哲学集成』月曜社/2023/p.131)

《人形》が人間をサイボーグとして認識するダナ・ハラウェイ(Donna Haraway)の認識を描いた作品と解することは不可能ではない。そのような認識は、「テクノスフィア(技術圏)」に通じるものである。

 「われわれは自然を改変し続けてきた。いまそれを放棄して、偶然のなりゆきに任せるわけにはいかない。地球を管理するのは人類の義務なのだ」という〔引用者補記:アメリカの環境ライターであるエマ・〕マリスの主張は、たとえばツルの大群が羽根を休める川の中洲が農業・工業用の大量取水により変化してしまったならば、重機でツルの急速場所を作ることが人間の責任だというふうに、生態系の復元に資する科学技術の積極的利用を視野に入れている。これは、人間、テクノロジー、地球環境が相互に作用しあう「テクノスフィア(技術圏)」の現実に対応した見方だと言える。
 技術圏とは聞き慣れない言葉であるかもしれないが、電気、ガス、上下水道、物流といった生活インフラに支えられ、スマートフォンやパソコンが身体の一部でもあるような日常に明らかなように、わたしたちは紛れもなく「技術の生態系」(大黒)で生を営んでいる。この場合の「技術」がデカルトの時代に端を発するテクノロジー(科学技術)を意味し、古代ギリシャに由来する「テクネー(技術)」でないことは言うまでもない。大黒岳彦の説明によれば、デカルト的技術は、第一段階(デカルトが生きた前後の17世紀から18世紀前半)、第二段階(18世紀後半から19世紀初頭にかけての産業革命期)を経て、第三段階(19世紀後半から20世紀初頭にかけての第二次産業革命期)において社会生活の成立に不可欠な土台となり、「日常生活における技術の使用は自明化し、更には次第に日常的意識の底に沈殿し、ついには透明化するに至った」。こうした「技術の全面化」が技術圏の根底にある。「技術圏」とは、「技術」「自然」そして「社会」のネットワークであり、名称のままに「技術」のみが突出した技術決定論的状況を指すのではない。「技術」と「自然」そして「社会」は、このネットワークにおいて不即不離の関係にあって、互いを区別しつつも、制約のない結びつきをもつことによって、互いに互いを媒介しあい変容させる関係にある。
 人新世における主体は人間でも資本主義社会でもなく「技術圏内にいける人間、インフラ、消費形態、経済、エネルギー体制から成る具体的な〈アセンブリッジ(集合体)〉」(Horn and Bergthaller)であると指摘されるように、人間は技術圏の一部であって支配者ではない。(結城正美『文学は地球を想像する エコクリティシズムの挑戦』岩波書店岩波新書〕/2023/p.94-95)

《並木道、獣》において、並木の緑と自動車の緑が混淆し、そこにモモンガかムササビのような動物が闖入しているるのは、「技術の生態系」の表現と解し得る。注射器と天体とを並べる《注射、箒星》も同様だろう。
「テクノスフィア(技術圏)」自体は新しい用語であるとしても、「人間ならざるもの」を人間とを切り分けずに考える思考は、切り分ける近代的な思考よりも遙かに長い歴史を持っている。

 作家アミタヴ・ゴーシュが『大いなる錯乱――気候変動と〈思考しえぬもの〉』(2016年)で論じるところによれば、ここ200年ほどの西洋の小説は、連続する時間と空間から愛や死や冒険や葛藤をめぐるブルジョワ的日常を切り取り、人間のドラマが展開する舞台以外のもの――すなわち人間ならざるもの――を排斥した。逆に言えば、そうした小説の慣習が確立する前は、人間の現実が、人間ならざるものの諸力の綱の目においてとらえられていたのである。〔引用者補記:リチャード・〕パワーズもインタビューや対談で、『オーバーストーリー』で人間ならざるものを主要キャラクターに据えたのは革新的なことではなく、人類の誕生以来、文明の中核を占めていたものへの回帰にすぎないと述べている。
 近代小説が排斥した人間ならざるものとの地続きの感覚は、先住民文学、神話、児重文学、ネイチヤーライティングに息づいている。『オーバーストーリー』にはそうした小説以外の文学への言及が多い。なかでもオイディウス『変身物語』の「あなたに語って聞かせよう。人が他のものに変身する物語を」という一節は、作品全体を通してリフレインされる。(略)
  近代以降、地球のお客さん目線で書かれてきた小説を、人間と人間ならざるものが同じ地球の住人である物語世界へと戻すパワーズの試みは、単なる過去回帰ではない。むしろ現実主義的である。この小説では樹木伐採抵抗活動がことごとく失敗に終わるが、まさにそうした展開に、環境をめぐる大義や正義が通用しない「グローブ(地球)」〔引用者註:比較文学研究者ガヤトリ・スピヴァクによる、人間による支配を可能と想わせる資本主義的グローバリゼーションの舞台としての地球を指す〕の現実が映し出されている。理想を振りかざした現代批判に走らず、現実を多角的にとらえて地球の住人になることに想像力をのばす『オーバーストーリー』は、人新世リアリズム小説とよぶにふさわしい作品だ。(結城正美『文学は地球を想像する エコクリティシズムの挑戦』岩波書店岩波新書〕/2023/p.199-200)

人間がネコやイカ、植物や星々と混淆する《匙、アニマル》、ヒトや獣や植物が一体化したような楽園イメージを提供する《祝い》といった作品が描くのは、まさに「現実を多角的にとらえて地球の住人になること」ではないだろうか。
そして、「人間の現実が、人間ならざるものの諸力の綱の目においてとらえられていた」理由は、音楽の力にある。

 「われわれは、どんな過去にさかのぼっても音楽に出会う」。これは、フランスの芸術史家ベルナール・シャンピニュルのことばだが、人類の営みをどこまでさかのぼっても、音が湧きあがってくる現場に遭遇できるはずもないのに、空気のような捕らえようもない音でできている音楽は、つねに人間とともにある。神が人智を超えた存在としてどこかに存在していたように。
 (略)
 古代の音楽も、その原初をたどれば、人間が創った「作品」というよりも、儀式としての音楽の方がはるかに長い歴史をもっている。いわば、音霊や言霊を媒介とした「神との交感」としての音楽だ。(略)
 自然を神々とする自然信仰は、自然物・自然現象を崇め、それらを神格化する信仰のことだ。たとえば、天地、海、山、太陽、月から、雷、雨、風などの自然現象、水、火から森、樹木、岩石、動物まで、ありとあらゆる自然物が神格化されてきた。いまでも、巨木、巨石などを御神体としている神社は多く、日本人にはなじみ深い信仰といえるが、古代中国や、ユーラシア大陸の多くの牧畜民族にみられる「天空崇拝」や、古代ケルトの「月崇拝」など、宇宙崇拝も枚挙にいとまがない。エジプトでは、太陽崇拝とともに猫も神として崇められたが、その理由は、猫が闇のなかでも目が見えるのは、夜、太陽が猫の目を通して下界を見ているからだと考えられたためだ。
 自然を崇拝する行為は、人類にはじめて芽生えた信仰のかたちと考えられている。そして、原初の音楽は、この自然信仰と分かちがたく深く結びついている。歌、踊り、叩き、踏みならしなど、音楽的衝動のほとんどが、音を通じた神との対話、すなわち自然信仰のための行為にも置き換えられるからだ。
 なぜ、神々との対話に音楽が用いられたのか。古来、神道では、神は「音霊」に乗って現れるとされたように、音は、神とのコミュニケーションツールだった。姿の見えない神は、見えない音と相性がいい。いまでも、神社に詣でるときに柏手を打つのも、本坪鈴を鳴らすのも、神を呼び起こすために、「音の力」を借りているのだ。
 (略)
 自然そのものを崇拝する自然信仰は、万物に宿る精霊を崇拝対象とする「アミニズム」と呼ばれる精霊信仰につながる。アニミズムは、生物・無機物を問わず、すべてのなかに霊魂、もしくは霊がやどるとする信仰だ。無機物にも霊が宿るというところがミソだ。つまり、石や岩にも霊が宿ることになる。そこには、この世界は目に見える世界と、目に見えない世界という、ふたつ世界から成り立っているという前提がある。さらに言えば、目に見える世界は、目に見えない世界の仮象にすぎないという考えもある。
 目に見えるものはすべて「分身霊」と呼ばれる霊を持ち、それらの霊と交信できる人はシャーマンと呼ばれ、部族のなかで重要な役割をはたす。ときには、シャーマンが部族の長であり、部族を率いる存在ともなる。精霊信仰の特徴は、精霊と交信する儀式にある。部族が生き延びるために、病人を癒やし、点の雷を鎮め、狩猟を成功させる。そして、その儀式に不可欠だったのが、踊りと音楽だった。歌や踊りを続けながら、意識を高揚させ、トランス状態に入ったシャーマンは太鼓のリズムに合わせて激しく身体を震わせ、精霊を呼び起こすのだ。(浦久俊彦『138億年の音楽史講談社講談社現代新書〕/2016/p.66-70)

ギターやハープのオブジェが会場に置かれているのは、音楽の力を借りることで、「人間と人間ならざるものが同じ地球の住人である物語世界へと戻」そうとするためである。

 宇宙は、コスモスで、人体はミクロなコスモスである。ぼくたちは肉体というひとつの宇宙をもっている。それは、ハーモニーによってバランスを保っている世界である。体調が悪いときを不調といい、調子はどう? と友人に訊くのも、対人関係に気を配るのも、平穏な生活や安定を好むのも、すべて自己の宇宙のハーモニーを保つためだ。
 ぼくたちの肉体をひとつの楽器にたとえてみると、42オクターブもの音域になるという。これがどれほど途方もない音域かといえば、もっとも広い鬼木の身近な楽器であるピアノが、わずか7オクターブ4分の1で、しかもこの音域ですら、シンフォニック・オーケストラの全音域よりも広いことと比較してみればわかる。
 42オクターブという音域を、音の高さの単位であるヘルツに換算すると、ピアノ鍵盤の中央の「ド」を基準音として、じつに570兆ヘルツに達する。つまり、人体は、1秒間に570兆回振動するほどの、多彩なレベルの周波数に対応できるのだ。これは、もはやひとつの楽器というレベルではない。
 物質は、粒子でもあり波動でもあるということが実証されたいまでは、原理的には、石も、ミカンも、ヒトも、質料のあるるものは、すべてある固有の周波数を持つ波動と考えることができる。太陽、月、地球など惑星から絶え間なく降り注ぐ光線や音波などが、その固有の周波数に多大な影響を及ぼしていることに、ぼくたちはふだんあまり気づいていないが、音を受け取るだけではなく、人体という楽器は、じつにさまざまな音を発してもいるのだ。
 それぞれが固有の周波数を持つ楽器である人体は、環境や電磁波など外界からの影響とともに、他の人体からの周波数などさまざまな影響を受けて変化し続けている。(浦久俊彦『138億年の音楽史講談社講談社現代新書〕/2016/p.286-288)

考えるのではなく、その空間・環境に浸れ。《哲学者》は頭でっかちな人間に、そう要求している。