可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 大野智史個展『咲いては消える花々と 酔蜜の匂いと ぬるい裸足。』

展覧会『大野智史「咲いては消える花々と 酔蜜の匂いと ぬるい裸足。」』を鑑賞しての備忘録
小山登美夫ギャラリー天王洲にて、2023年10月7日~11月4日(当初会期10月28日までを延長)。

密林と音楽をモティーフとした作品など5点で構成される、大野智史の個展。

《Solstice》(2503mm×1997mm)には、様々な熱帯の植物に囲まれた2人の女性がスピーカーの傍に佇み、あるいはスピーカーの上に載る場面が描かれている。ラフレシアなどの花を前に大型のスピーカーが2段に積まれ、大きめの灰色のTシャツ身に付けた女性が前に立ち、ショートパンツだけの女性はスピーカーの上に腰掛けている。腰掛けた女性は紺のマニキュア・ペディキュアをして、右手のスマートフォン(あるいはデジタル・オーディオ・プレイヤー)でHallucinogenの"Solstice"を再生している。彼女たちの背後には、左側に太い幹の樹が立ち、右に向けて梁のように彎曲した枝を伸ばす。その周囲を種々の熱帯性の植物が葉を拡げている。ラフレシアの花の穴はバスレフ型のサブウーファーのようで、放射状に広がる葉は音の拡散をイメージさせる。繁茂する熱帯植物は、「再生される」音楽と相俟って、サイケデリックな印象を生みそうだ。しかし、パステル調の画面は落ち着いた雰囲気を醸し出す。女性たちは音楽――あるいは音楽を象徴する植物――に包まれ、世界と調和している。
《Dark Magus》(2503mm×1997mm)には、左側に積み上げられたスピーカーが置かれ、その手前でショーツだけ身につけた女性がスマートフォンを手にDJコントローラーを操作している。近くには、オーヴァーサイズのピンクのパーカーの女性がフードを被ってエナジードリンクを片手に佇む。奥では青いパーティードレスの女性が音楽に合わせて身体を揺らしている。彼女たちの周囲には熱帯の植物が花を咲かせ、あるいは葉を拡げている。繁茂している。画面最上部中央には雲の中から満月が顔を覗かせて暗い雲を波紋のように浮かび上がらせ、画面最下段中央では花にサブウーファーのような穴が見える。月は陰であるが、花の穴=陰との対照では光=陽と表現される。この天地の陰陽を結ぶ垂直線が、不可視であるラインアレイスピーカーの水平方向への音の拡がりと直交する。東西南北の和合を見ることができるだろう。《Solstice》同様、パステル調の画面は、世界の調和の表現と考えられる。
《Solstice》や《Dark Magus》に描かれる人間が自然の中に調和した世界は、一種の桃源郷と言える。

 そもそもヨーロッパにはユートピア文学というひとつのジャンルがあるらしい。「ユートピア」という言葉をつくったのはトーマス・モアだけれども、もっとはるか昔からおなじような文学形式はあったわけで、この世に存在しない理想の国家像を描くというもの。これは古いギリシア以来の伝統です。もちろん東洋にも似たものはありますけれども、ただ角度がちがう。東洋の場合は桃源郷みたいに花が咲きみだれていて、おいしい空気があって、自然そのものが夢の世界、楽園のようなイメージにできあがっているけれども、ヨーロッパのはそうじゃない。ユートピアとは理想国家であり、ちゃんと法律があってきちんとした都市の形態をとっている。中国人の考える桃源郷は町ではなく、むしろ野山の自然のなかにひろがるフェーリック(妖精的、夢幻的)な世界なんで、しかも仙人ならばいとも軽々とそこへ行けるようになっている。たとえば木の洞にもぐりこむと、そこからもうそのフェアリーランドがひろがっていたりするわけです。(巖谷國士シュルレアリスムとは何か』筑摩書房ちくま学芸文庫〕/2002/p.196-197)

桃源郷は、「花が咲きみだれていて」、「自然そのものが夢の世界、楽園のようなイメージにできあがっている」。そして、「木の洞にもぐりこむと、そこからもうそのフェアリーランドがひろがってい」る(例えば、2023年秋に泉屋博古館東京で開催された『楽しい隠遁生活 文人たちのマインドフルネス』に出展された童基《桃源図》でも、桃源郷は洞を舟で抜けた先にあった)。

《The hole in the deep dream》(1800mm×2200mm)に描かれるのは、巨大な花々や茸が、鏡のように表わされた木の洞(=the hole)の手前に拡がるイメージである。鏡面は想像力さえあれば、越えられる、アリスのように。

 「鏡のおうちで暮らすのってどう、キティ? あっちでもミルクもらえるかしら? ひょっとしたら、鏡の国のミルクは飲めないかもね――でも、ああ、キティ! ほら、廊下よ。こっちの応接間のドアを大きく開けっぱなしにしておけば、鏡のおうちの廊下がちょっとだけのぞけるわ。見わたすかぎり、うちの廊下とそっくりだけど、あの先はすっかりちがってるかも。ね、キティ、鏡の国のおうちに行けたら、なんですてきでしょう! 向こうには、そりゃあ、きれいなものがあるにちがいないわ! ごっこ遊びをしましょ、向こう側に入って行けるふりをするの、キティ。鏡はガーゼみたいに、どこもやわらかくて、通れるってことにするの、ほら、なんだかもやみたいになってきたわよ、ほんと! 通るのなんてかんたん――」アリスはこう言いながらいつの間にか、マントリピース(だんろのかざりだな)の上にのぼっていましたが、どうやってそこにあがったのかわかりませんでした。そして確かに鏡はまるできらきら光る銀のもやのようにだんだんと溶けてきていたのです。
 次の瞬間、アリスは鏡をくぐりぬけて、鏡の国の部屋にかろやかに跳び降りていました。(ルイス・キャロル河合祥一郎〕『鏡の国のアリスKADOKAWA〔角川文庫〕/2010/p.20-23)

《Gamma Goblins》(1821mm×2726mm)――《Solstice》同様、Hallucinogenの作品タイトルから採用されている――も木の洞と花と茸のイメージである。洞の手前の桃源郷に対し、画面奥には絵具を震えるように垂らすことでスペクトログラムのような抽象的な世界を表現しているのは、音楽により穴を抜けて楽園へ至ることが可能であることを示すのだろう。
すなわち、《Solstice》や《Dark Magus》で理想郷を思い描き、実際に自らが音楽の力を使って楽園へ入り込むヘッドマウントディスプレイによるVR的なイメージが《The hole in the deep dream》や《Gamma Goblins》である。これらの作品は、中国の士大夫や日本の文人たちが水墨画を用いて観想した自娯遊戯の世界を現代に蘇らせていると言って間違いない。