可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 河原茉美個展『境界線上』

展覧会『河原茉美「境界線上」』を鑑賞しての備忘録
MEDEL GALLERY SHUにて、2023年9月26日~10月8日。

絵画に描かれるモデルが、カメラを顔の位置に構えている姿を描いた「被写体」シリーズ、あるいは絵画を眺める人を描くシリーズなど、眼差しの対象である被写体(subject)が眼差しの主体(subject)でもあるという、入れ籠の関係を主題化した絵画群で構成される、河原茉美の個展。

冒頭を飾るのは、ヴェールを被りドレスを纏った女性が床に腰を降ろして、カメラを両手で顔の前に構えている姿を表わした《被写体》(606mm×910mm)。ドレスの薄萌葱を初め、ヴェール、カメラ、背景が全て緑系統の色でまとめられており、左上に位置する青みがかった緑のカメラとその脇から覗く赤い髪――赤は手の指や足の指にも点じられている――がアクセントとなって眼を引く。ドレスのママ床に座り込み、背を倒す女性の姿勢は、レゴのキャラクターのように表わされた強張った手の形とともにデフォルメされた印象を生んでいる。その印象は画面から切れた頭頂部や左肘、ドレスの裾などによってなお強められる。本来は撮影の対象であろうドレスの女性が、画家――そして絵画の鑑賞者――に向かってカメラを向けている。被写体(subject)が同時に撮影の主体(subject)となっている。だがカメラのファインダーを覗くことに集中するあまり姿勢が崩れ、無防備な姿を曝すことになる。
その無防備さは、着物を着てカメラを構える女性を描いた《被写体》(333mm×333mm)において、彼女の脚が着物から露出する――草履も脱げいている――姿、あるいはヌードモデルカメラを構える姿を捉えた《被写体》(333mm×333mm)において、モデルが脚を開いて陰部を露出してしまっている状況などによってより明瞭になる。無防備さは見ることに意識を奪われるあまり他の事柄に意識が働かないことから生ずる。「被写体」たちのデフォルメされたポーズにより諧謔味は加えつつ、視覚偏重の社会、何より何に対してもカメラを向ける過剰な撮影行為を揶揄するのであろう。

《劇》(727mm×1167mm)ではオダリスクとして描かれるような横たわる裸体女性を描く。右肘を突いて横たわる女性は右側に頭が来るようにしてその背面を鑑賞者に曝す。やはり右肘を突いて寝そべる男性は左側に顔が来ている。シルエットとして表わされるが腰の位置で色の濃淡が変えられ、着衣であることが暗示される。男性の顔には左目などが表わされ、女性に視線を送っていることが分かる。女性像、とりわけ裸婦像の鑑賞者としての男性の存在を示す、絵画における見る男性・見られる女性の性差を浮き上がらせるとともに、モデル=女性の立場から視線を送り返している。作家は、鏡像的なイメージを描きながら、その実、鏡像ではない。それはシェイクスピア劇の道化のような絵画、愚者の鏡としての絵画を制作しようとしてのことではないか。

 (略)ルネサンス最大の人文主義エラスムスの著書『痴愚神礼讃』に掲げられた挿絵《愚者の鏡》は、実に巧みに道化の機能を示している。すなわち、道化服を着ているのに道化帽を脱いでまじめそうな顔をした男が鏡を覗き込むと、鏡のなかの道化が「おまえはフール(阿呆)だ」と指摘すべく、下を突き出しているという図である。道化の役割とはまさにこの鏡の中の道化のように、自分がまじめで賢いつもりでいる人に「己の愚かさを知れ」と言ってやることであるわけだが、それは「あんたは阿呆の俺と同じ阿呆だよ」と言うに等しい。
 「賢い阿呆」や「無知の知」といった矛盾した表現をオクシモロン(矛盾語法・撞着語法と呼ぶ。「オクシ」は「賢い」、「モロン」は「愚か」を意味するギリシャ語だ。まさに「賢い阿呆」が原意である。矛盾した内容をあえて結びつけるこの表現は、近代的な整合性にこだわらずに奔放な想像力を行使するシェイクスピアの作劇を特徴づける表現技法だ。(河合祥一郎シェイクスピア 人生劇場の達人』中央公論新社中公新書〕/2016/p.134-135)

《劇》では合わせ鏡のようにシルエットとなった人物が画面の奥に連なっている。撮影スタジオらしき空間で壁面に貼られた撮影用背景紙の上村松園《序の舞》を前にモデルと同じポーズを取る少女の姿を描く《対自》(410mm×242mm)でも、絵を見る人を見るという形で、入れ籠の構造は合わせ鏡の像のように広がる可能性を示唆する。作家は自ら鏡という境界線上に立ち、鏡という絵画を向き合い、無限とも思えるイメージ――絵画の歴史――に立ち向かっている。鏡に向き合う人を真上から捉えた《You and Me》(652mm×1000mm)がそれを象徴する。