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芸術鑑賞の備忘録

映画『市子』

映画『市子』を鑑賞しての備忘録
2023年製作の日本映画。
監督は、戸田彬弘
原作は、戸田彬弘の戯曲『川辺市子のために』。
脚本は、上村奈帆戸田彬弘
撮影は、春木康輔。
照明は、大久保礼司。
録音・整音は、吉方淳二。
美術は、塩川節子。
衣装は、渡辺彩乃
ヘアメイクは、七絵。
編集は、戸田彬弘
音楽は、茂野雅道
126分。

 

人気の無い海に波が打ち寄せる。ツクツクボウシの鳴き声が響き渡る。海から真っ直ぐに延びる緩やかな坂道を黒いワンピースの女が鼻歌を歌いながらふらふらと登っていく。
2015年8月13日。
仕事を終えた配管工の長谷川義則(若葉竜也)が家に向かってオートバイを走らせる。
開け放した窓から蝉時雨。川辺市子(杉咲花)が衣類を畳んで鞄に詰めている。テレビに生駒山中で白骨化した遺体が発見されたとのニュースが流れる。豪雨災害の対応に当たっていた作業員が発見した遺体は、司法解剖の結果死後8年近く経過し、死体遺棄事件の可能性があるという。オートバイの音が聞こえると、市子は慌ててバッグを抱えてベランダへ出る。手摺を乗り越えた市子だがバッグの持ち手に届かない。バイクを駐輪場に止めた義則が階段を上がり、玄関を開ける。ただいま。市子はバッグを諦めて通りへ出ると一目散に駆け出した。部屋に入った義則が市子を呼ぶが返事がない。うす暗い部屋にはテレビが点けっぱなしで、ベランダの窓が開け放たれていた。ベランダに出ると、通りには祭りに行く浴衣姿の子供たち。足元に市子の鞄が置かれているのが目に留まる。
2015年8月12日。市子が台所で料理をしている。シチューいい感じ。肉一杯頂戴。卓袱台を前に坐る義則がリクエストする。ごめんな。給料日前やねん。市子が食事を運んでくる。うまそう。すぐさま食べ始めようとする義則に市子がいただきますを言わせる。うまい! 長谷川君、小さいとき何が好きやった? 肉。すき焼きとか焼き肉とかあるやろ? 牛肉なら何でも。男の人ってそういうとこある。市子は? 味噌汁かな。変? 変じゃないけど。夕方になったら匂いするやん、どっかの家から、幸せそうな匂い。憧れの匂い。だから…。だから? うち、今幸せなんよ。義則は黒い鞄を取り、中から紙を取り出して卓袱台に置く。婚姻届だった。一緒になろか。噓? 市子の目から涙が溢れる。結婚…して下さい。市子が泣き出すので義則は動揺する。…ど、どうしたの? 嫌? 噓やん。噓じゃないよ。…嬉しい。義則は紙包みを取り出して市子に差し出す。開けてみて。市子が開けると涼やかな帯と紺色の浴衣が出てきた。市子が立ち上がって浴衣を合わせてみる。やっぱり似合うと思った。明日これ着て一緒に花火見に行こう。…有り難う。
2015年8月21日。
刑事の後藤修治(宇野祥平)がベランダを確認して部屋に戻る。義則が市子が姿を消した日について説明する。それが彼女を見た最後なんですね? いなくなったことに心当たりはありますか? ないです。プロポーズが負担になったとか? 義則は首を横に振る。何故すぐに捜索願を出さなかったんですか? すぐに帰って来ると思ったんで…。彼女の行きそうな所は? ご両親とか? …知らないんです。お互いのことあんまり話さなかったから…。3年も一緒にいて? 出身は? 大阪です。年齢は28。1987年、東大阪市出身。バブルが始まって、浮かれてた。長谷川さん、この女性は誰なんでしょう? 後藤が写真を見せる。義則がベランダで洗濯物を干す市子を撮影した写真だった。市子ですよ。それがどうも、存在せえへんのですよ。

 

2015年8月。配管工の長谷川義則(若葉竜也)は、同棲相手の川辺市子(杉咲花)にプロポーズするとともに、浴衣を贈る。2人が出会ったのは3年前の夏祭りで、市子が浴衣に憧れていたのを覚えていたのだ。涙を流して喜ぶ市子に明日は一緒に祭りに行こうと約束する。ところが翌日、義則が帰宅すると、市子は姿を消していた。10日ほど経ってようやく捜索願を出した義則は、刑事の後藤修治(宇野祥平)の訪問を受ける。後藤は「川辺市子」が存在しないと言う。後藤は生駒山中で発見された川辺月子の白骨遺体の事件を追っていて、失踪した川辺市子の関与を疑い、関係者の聞き込みを行っていた。山本さつきは、小学4年生の時、想いを寄せた少年と市子が親しげにしているのが気に食わず喧嘩になった際、市子の腕っ節の強さに驚いたと言う。幸田梢は、小学5年生の時、胸を触れてきた男子を撃退してもらって親しくなった月子が本当は市子だと言っていたこと、月子の家には介護用の便器などが置かれていて、母親の川辺なつみ(中村ゆり)が客を取っていたことを覚えていた。義則も市子の足跡を辿り、市子とともに住み込みで新聞配達をしていたパティシエの吉田キキ(中田青渚)を探し当てる。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

川辺市子は同棲相手の長谷川義則からポロポーズされる。その日は2人の出会いから丸3年という節目の日だった。市子は目に涙を溢れさせる。その涙は義則の愛情に対する歓びであり、同時に義則と別れなければならないという悲しみでもある。なぜなら婚姻届の提出は、市子の無戸籍を明らかにするからである。市子の母・川辺なつみは最初の夫の暴力により別れ、離婚届の提出が難しく、出生届を提出しなかったこと(嫡出推定制度(民法772条)によるいわゆる「離婚後300日問題」)が示唆される。そして、無戸籍の発覚は、市子の過去を明るみにするため、市子は義則と婚姻届を提出することを避けなくてはならなかったのだ。
高校時代、自分に想いを寄せる北秀和(森永悠希)に、市子は花火が好きだ言う。みんなが上を見上げているからである。ところで、小学生の「月子」=市子は、裕福な幸田梢と親しくなった。きっかけは発育の良い梢の胸を触って来た男子を「月子」が撃退したことにある。「月子」は2歳年上だったため、やはり胸が大きく生長していた。梢はお揃いの下着を買って「月子」に与えようとする。「月子」は一方的に与えられる立場が嫌だったため、携帯ゲーム機を梢にプレゼントする。梢は「月子」の万引きをすぐに見抜いて商品を返してくるように言う。自分だけがいつも相手を見上げていなければならないという悲しみ。みんなが上を見上げている花火が好きだという話に繋がる。
川辺なつみが夜の仕事を終えて家に帰って来たとき、あること――機械的作動音の停止――に気が付く。なつみは市子に麦茶を出して、溜まっていた洗い物を始める。母親は変わらない日常を送る――一緒に罪を背負う――決意を娘に言葉にすることなく伝えきる。何という、落ち着きの凄みよ。
冒頭、市子が黒のワンピースで姿を表わすのは、「黑孩子」(中国の一人っ子政策下で生じた無戸籍児童)を連想させるためである。そして、彼女がなぜ、海から1人で歩いてくるのか。同じシーンが繰り返し映し出されるとき、彼女が新たな人生を歩み出したことが明らかになる。