展覧会『櫃田伸也「○△□」』を鑑賞しての備忘録
KAYOKOYUKIにて、2023年10月28日~12月9日(当初会期は12月2日までを延長)。
櫃田伸也の絵画展。
《四季山水》(925mm×1630mm)は、愛知県立芸術大学と東京藝術大学とで使用した作業板に描画した作品。山谷を表わした地形図のような茶褐色の画面には、青、茶、黄で塗り潰した紙や、メンディングテープなどが貼られている。絵具の食み出しや飛沫、カッターの使用跡など長年の使用による作業板の傷みは、流水の浸食作用による河谷の形成へと想像を誘う。紙やテープの画面への貼り付けは漆芸技法のようであり、作業板をそのまま用いていることと相俟って工芸的な印象を生む。作業板の表面に残されたイメージに、作家は巡る季節が刻印した実景を見たのではなかろうか。
一般に東洋では、中国で漢代に興った「山水画」が、東アジアの諸地域に伝播して、風景の表現が各様に展開したと考えられている。「山水画」とは文字通り、山岳・渓谷や河水の自然景観を主題にした絵画の1ジャンルである。「神仙の住む場所としての山岳(名山)をあらわす、観念的、象徴的な形態から出発した中国山水画は、道教の神仙思想と密接な関わりをもって展開してきた。日本の風景表現は、この中国山水画を直接学び模倣することから出発した。奈良時代、8世紀ころのことである。この時代には、日本の風景自体が絵画の主題に取り上げられることはなかった。もっぱら当時の絵は、請来された中国の絵画を直接模写し、あるいはそれらを粉本にして絵を制作していたと推定される。
しかし、平安時代前期、9世紀後半ころになると、国風文化の台頭にともない、絵画においても「唐絵」に対して「やまと絵」があらわれ、まがりなりにも日本の風景が描かれ始める。すなわち、和歌の歌枕として知られた日本各地の「名あるところどころ」を画題にした「名所絵」や四季折々の自然の推移や各月毎の風物を主題にした「四季絵」や「月次絵」が、障子や屏風に数多く描かれた。これらには屏風歌と呼ばれる和歌が添えられることが多く、やまと絵が文学との深い関わりの中で展開したことを示しているが、平安時代の遺品は伝存していない。断定はできないものの「平安時代の名所絵は実景描写とは余り関係がなく、概念的な形式美」を特質としていたとする指摘がある。おそらく、そこに描かれた風景は、和歌による文学的表現と関連から理想化され形式化されたものであり、絵師が実際に眼の前にしている実景ではなかったであろう。絵師がある特定の場所すなわち実景に関心を寄せて描き始めるのは、若干の例外を除いて、概ね近世以後、江戸時代も半ば以降のことである。(横浜美術館学芸員:柏木智雄・倉石信乃・新畑泰秀編『明るい窓:風景表現の近代』大修館書店/2003/p.28-29〔柏木智雄執筆〕)
山水画は観念的、象徴的な景観を描くものであるから、宇宙観の表現として、○△□は須弥山世界観に見られる4つの洲の象徴とも考えられる。
《四季山水》の左右には、いずれも山(△〉と月(○)を表わした《山…》(各727mm×1037mm)を三幅対のように配している。青く塗った円形に近い紙による月が、三幅対のいずれの画面にも登場することで、統一される。
ところで法然に「月影のいたらぬ里はなけれども眺むる人の心にぞすむ」という歌があるが、絵画(□)とは「眺むる人の心」と言い換えられまいか。対象(△)にどのように光(○)を与えるかを表わしたイメージ(□)、それこそ観念的な景観すなわち山水なのだろう。