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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 江原梨沙子・岡部千晶2人展『ARCADIA』

展覧会『江原梨沙子・岡部千晶2人展「ARCADIA」』を鑑賞しての備忘録
MASATAKA CONTEMPORARYにて、2020年7月25日~8月14日。

ARCADIA」と題して、江原梨沙子と岡部千晶の絵画を紹介する企画。

江原梨沙子の作品は、「山水画」の形式を用いたシリーズ、パブロ・ピカソの描いたマルガリータ王女をテーマとしたシリーズ、ショーヴェ洞窟壁画に触発されたシリーズという3つのシリーズから構成されている。これら多様な作品群が「アルカディア(ARCADIA)」のもとにどのように統合されているのだろうか。
大辞林〔第4版〕で「アルカディア」は「古くから牧歌的理想郷の代名詞とされた」と説明されているように、アルカディアとは、牧歌的理想郷である。

 そもそもアルカディアとはギリシアペロポネソス半島中央に位置する山岳地帯の名称である。北はアカイア、西はエリス、東はアルゴリスそして南はラコニアとメッセニアに接していて、アルフェイオス川が流れ、支流も多く分岐している。流域はやや肥沃だが国土全体がほぼ山で占められ、牧畜が主力であり、アルカディア人は羊飼いが多く、音楽が好きで、牧神パンを地神として崇めている。(略)
 (略)アルカディアの地に自分たちの歌のテーマをおいたのはオウィディウスウェルギリウスであり、その作品のなかでアルカディアを、いまやついえた黄金時代に無垢な牧人が住む夢幻郷としてつくりだしたのである。とりわけウェルギリウスにあっては地図上にある現実の国というより心のなかにある国そのものであった。その『牧歌』はアルカディアをつむぎだし、西欧文化を縦断して今日に至る生きる伝統にまでなった。(中島俊郎『英国流 旅の作法 グランド・ツアーから庭園文化まで』講談社講談社学術文庫〕/2020年/p.66-67)

本来は実在の地域を指していたアルカディアは、例えば吉野が歌枕とされたように、ヨーロッパの詩人が歌い上げる中で理想郷へと変じていった。他方、東洋において一種の理想郷を描いたのが山水画であった。

 一般に東洋では、中国で漢代に興った「山水画」が、東アジアの諸地域に伝播して、風景の表現が各様に展開したと考えられている。「山水画」とは文字通り、山岳・渓谷や河水の自然景観を主題にした絵画の一ジャンルである。「神仙の住む場所としての山岳(名山)をあらわす、観念的、象徴的な形態から出発」した中国山水画は、同郷の神仙思想と密接な関わりをもって展開してきた。日本の風景表現は、この中国山水画を直接学び模倣することから出発した。奈良時代、8世紀ころのことである。この時代は、日本の風景自体が絵画の主題に取り上げられることはなかった。もっぱら、当時の絵師は、請来された中国の絵画を直接模写し、あるいはそれらを粉本にして絵を制作していたと推定される。(横浜美術館学芸員編著『明るい窓:風景表現の近代』大修館書店/2003年/p.28〔柏木智雄執筆〕)

江原が現代的景観を山水画に落とし込んだ作品群は、アルカディア的表現と言えるのだ。

金魚を眺めたり、燃えるキリンを眺めたりするマルガリータ王女の肖像のシリーズは、パブロ・ピカソの描いたマルガリータ王女のシリーズに影響を受けて制作されたものだという。ピカソの制作のきっかけには、幼いマルガリータ王女が暮らした宮廷で活躍したディエゴ・ベラスケスの作品があった。幼い王女の姿に、アルカディアを見出すことは不可能ではない。

 現代でも牧歌はそのアルカディアを子供のなかに求め、存続している。機械文明のなかで田園を子供のなかに見出したのである。
 子供は汚れをしらず新鮮な自然であると当時に、個人にとって幼児期は無垢な時代というわけである。羊飼いである子供は、アルカディアという場所よりも時間の世界で生きはじめたわけだ。このふたつの側面が牧歌の一変形としての子供崇拝を枠組みとして機能し、現代文化のなかでひとつの表象としての位置をしめるようになっている。(中島俊郎『英国流 旅の作法 グランド・ツアーから庭園文化まで』講談社講談社学術文庫〕/2020年/p.78-79)

田園風景を見出すことは無理としても、宮廷という狭い空間にとらわれて幼少期を過ごした王女に「無垢な時代」を投映することは可能だ。ベラスケス、ピカソ、そして江原へと時代を超えて描き継がれる中で、マルガリータの穢れの無さは純化され、アルカディア化されていったとも言えよう。ここで江原は、マルガリータをガラスの鉢にとらわれた金魚を眺める姿として描くことで、自由を奪われた衆人環視の存在としてのマルガリータを浮き彫りにし、男性による一方的な理想化という一種のまなざしの暴力さえ描いて見せている。

現在知られる中では最古級の絵画であるショーヴェ洞窟壁画をテーマとした作品は、洞窟という閉鎖環境である点、また、原始時代という文明の発達前の自然に近い状態という点で、アルカディア的と言えよう。野菜の入っていた段ボールを支持体に採用しているのは、かつて中身が入っていた段ボール「箱」に洞窟としてのイメージを重ねるとともに、生活と絵画との密着を示すためであろう。幾星霜を耐えてきた壁画の持続性を、段ボールの一時的な存在と対比させることで現代文明のはかなさを強調する意味合いもあるのかもしれない。この壁画をテーマとしたミクストメディアの作品2点には《Astronomical observation》というタイトルが冠されている。天体観測も天球という想像上の壁を眺めるものであり、他方、洞窟壁画も暗闇を見上げるものである点では、両者に類比が認められる。何より、星々を繋げて動物を描いてみせるのは、原始時代からの変わらぬ人々の習性とも言えるのである。さらに、このミクストメディアの作品には、壁画のイメージを表すとともに、鏡のように機能する銀色のパーツが埋め込まれている。鑑賞者が画廊という洞窟にいることを気付かせる装置であろうか。または、山水画において鑑賞者のアヴァターとして機能する画中人物が描かれる機能を、鑑賞者を映す「鏡」に代替させ、鑑賞者をアルカディアを遊歩させる仕掛けであろうか。あるいは、マルガリータの眼に映じた金魚鉢の自己像を追体験する拵えかもしれない。いずれにせよ、作品世界に鑑賞者を引き込むためのものであることに間違いはなさそうだ。

岡部千晶は、異形の存在を含めた多様な生物が跋扈する世界を描く。中には人類滅亡後の世界を牛耳るキツネのような生物の肖像《世界のなりたち》や、鳥・ペンギン・ヒトのキメラ的生物が武力支配する海岸を描いた《進化の岸辺》といったポスト・アポカリプス的作品もあり、ホモ・サピエンスにとっての牧歌的理想郷を過去に投映しようとする「アルカディア」からは明らかに外れていよう。但し、本来的なアルカディアが一種の逃避的ユートピアであるとするなら、虚構世界における思考実験として、アルカディアを包摂する広義のユートピアの呈示と解することは可能である(ユートピアの定義については、菊池理夫「ユートピアの終焉?:ユートピアの再定義に向けて」『法学研究:法律・政治・社会』1994年12月号(第67巻第12号)p.181-188参照)。異種間の性愛をテーマとした《ささやかなzoo》や、獣頭人や人魚や直立歩行の烏賊など多様な存在がプールという水を湛えた地球を象徴する場で共楽する《pool》などからは、生命誌的観点から自然史を捉え直し、主体を人間から生命へと拡張したユートピアが窺える。村田沙耶香と松井周の原案による舞台『変半身』と響き合う世界観である。