可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『木島櫻谷―山水夢中』

展覧会『木島櫻谷―山水夢中』(後期)を鑑賞しての備忘録
泉屋博古館東京にて、2023年6月3日~6月25日(前期)、6月27日~7月23日(後期)。

木島櫻谷(1877-1938)の山水画を展観する企画。第1章「写生帖よ!―海山川を描き尽す」、第2章「光と風の水墨―写生から山水画へ」、第3章「色彩の天地―深化する写生」、第4章「胸中の山水を求めて」、エピローグ「写生にはじまり、写生におわる。」の5つのセクションで構成。

6曲1双の金地屛風《蓬莱瑞色》[21]について。
右隻には画面の下段に山並(連続する丘?)を描いて上部に広く余白を取る(6曲1双《富士山図屛風[07]》などでも余白をたっぷりとっている)。左隻には高い位置に嶺を描き、その上側のみならず下方も金地を残し、嶺の高さを強調する。キャプションに併記された解説には、一般に蓬莱を表わす場合、旭日や楼閣が描かれることが多いが、本作では常緑の松と鶴とにモティーフが絞られていることが指摘されていた。鶴は右隻の空を飛ぶが、左隻の嶺々よりも低い位置に表わされることで、嶺の高さが強調される(但し、6曲1双《万壑烟霧》[11]の左隻第1扇や、6曲1双《暮雲》[19]の右隻第5扇から左隻第1扇にかけてなどで、画面から山頂が切れるという表現は用いられていない)。海の表現は無く、島ではなく山としての蓬莱が描かれている。山は連なり、高く聳え、奥へ向かって行く。

蓬莱は神仙思想(古代中国における不老長寿の人間=仙人の存在を信じる思想)において山東半島の東方海上にあると信じられた三神山の1つで、不老不死の薬を持つ仙人が住むと考えられていた。始皇帝は三神山を探させるとともに長安の蘭池に蓬莱を模した風景をつくらせ、漢の武帝も同様に三神山の探索を命じるとともにそれを模した風景を上林苑の健章宮にある泰液池につくらせたという。「神仙世界を模した庭園をつくることは、永遠の権力を手にするために不老不死の妙薬があると言われる三神山を発見することの代替行為」であり、「時代下るとともに、神仙世界を模した小世界をつくることが単に不老長寿を願う行為に転化した」(原瑠璃彦『洲浜論』作品社/2023/p.126-127参照)。
常世国とは永遠不朽の理想郷であり、死者が帰っていく国である。『日本書紀』の雄略天皇の記事に見える浦島子が向かう常世国が「蓬莱山」と表記される。山東半島の東方海上に三神山があると信じる神仙思想が、日本の古代信仰としての常世思想と構造的に類似していたため、漢文による描写の過程で、「徐々に蓬莱思想に埋め隠されていった」(原瑠璃彦『洲浜論』作品社/2023/p.155-156参照)。

 (略)日本の庭園には古来、池がつくられ、それは海を模したものと理解されていたが、池に中島をつくることは今日に至るまで日本庭園の一つの定型となっている。庭園が「しま」と呼ばれる所以は、その要点が、池の中島にあることによると考えられる。(略)これら〔引用者註:始皇帝・漢武帝〕の庭園にはじまる池中の蓬莱島は理想郷の表象である。蓬莱島のモティーフが今日の庭園でも盛んにつくられるのは、先に見た、海の向こうの常世国という理想郷を信じる古代信仰の素地がもともとあったからであり、日本の行ける常世と蓬莱の習合の一例と見て良いだろう。(原瑠璃彦『洲浜論』作品社/2023/p.166-167)。

ところで、木島櫻谷(1877-1938)と同時代人で同じく京都で活躍した神坂雪佳(1886-1942)の描く《蓬萊山図》では、掛軸の縦構図のためもあるが、垂直に切り立つ島として蓬莱が表わされている。それに対し、木島櫻谷《蓬莱瑞色》[21]では、屛風のパノラマ的性格もあって横に拡がるが、山の形象である。垂直性、あるいは山の姿が重視されている。
蓬莱の表象に、婚礼の場などの祝賀的な場の飾りものとして用いられた島台や蓬莱台がある。それらの源流である洲浜台は、「洲が曲線を描きながら出入りする海辺」を象った台であり、「和歌的表象のミニチュアが置かれる箱庭のようなもの」であった(原瑠璃彦『洲浜論』作品社/2023/p.22参照)。

 (略)再び、風流作り物の濫觴としての州浜台に立ち返るならば、確かに、洲浜台においても山や木といった垂直的な「立て」られるものは頻出していたが、それらが「洲浜型」と曲線的な造形の台の上に置かれたこと、そしてそれ全体が「洲浜」と呼ばれたことを重視したい。洲浜台において、垂直的要素は水平的要素に包含されていたと言えよう。
 (略)作り物の源流には《仮山残欠》や標山、山形といった山のミニチュアがあったが、これらは仏教思想、神仙思想に結びついたものであった。洲浜台というミニチュアは、これらの山のミニチュアの影響なしには生まれなかっただろうが、それが和歌的・倭絵的表象と結びつくとき、「洲浜」という海辺の方に主眼が置かれるようになったことに注目したい。洲浜台が日本的表象と結びつくにあたって、標山や山形といった作り物の源流にはなかったこの部分が必要であったと考えられる。
 しかし、時代が下るとともに、そこで海辺の方は抑圧され、山の方が前景化してくる。先に見たように、洲浜台は後世、島台や蓬莱台として継承されてゆく。そこで洲浜形という曲線的な造形は継承されてはいるものの、このことは、海辺の水平的な部分よりも、島や山といった垂直的な部分の方に主眼が置かれてゆくことおを示している。洲浜台が風流作り物の濫觴であるとは言え、郡司の研究〔引用者註:郡司正勝『風流のイコノグラフィー(図像誌)』〕において「山」という垂直的要素が主題となっていることに象徴されるように、時代が下るととともにその山の表象、すなわち垂直性の部分のみが拡大化されて継承され、徐々に洲浜の表象、水平性は抑圧されていったようである。(原瑠璃彦『洲浜論』作品社/2023/p.344-345)。

作家の活躍した舞台が海の無い京都であること、帝国主義――剛体の存在論を背景に持つ――の時代背景などが、蓬莱を水平に垂直にさらには奥へと拡大・膨張する山としての表象に誘ったのであろうか。