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芸術鑑賞の備忘録

展覧会『推し活!展―エンパクコレクションからみる推し文化』

展覧会『推し活!展―エンパクコレクションからみる推し文化』を鑑賞しての備忘録
早稲田大学演劇博物館にて、2023年4月24日~8月6日。

演劇博物館所蔵資料から、演劇や映画の観客ないしファンに纏わる品々を展観する。役者絵やブロマイドなどを展示する「集める」、贔屓連やファンクラブ・後援会などの会報などを並べた「共有する」、ファンレターや手製の人形などを陳列した「捧げる」、パトロネージなどを解説する「支える」の4つのテーマで陳列し、演劇・映画の観客の歴史を紹介する企画。

「推し」とは「応援する対象」であり、「推し活」とは「推しを様々な形で応援する行為」であると定義づけた上で、室町期の能やシェイクスピア時代の演劇におけるパトロンや、江戸期の歌舞伎における大衆の存在が例示される。すなわち、推しは観客やファン、パトロンなどを含んだ広義で用いられており、人口に膾炙するようになった近年の「推し」固有の性格は明らかにされない。但し、会場で配布されているリーフレット掲載の中本千晶が寄稿した文章が参考になる。

 それでは「推し」と「贔屓」はどう違うのか? 両方が出ているデジタル大辞泉によると、まず「贔屓」の説明は「気に入った人を特に引き立てること。講演すること。また、引き立てる人」とあり、用例として「同郷の力士を―にする」「弟のほうを―にしてかわいがる」「―の客」「―筋」が挙げられている。そこには贔屓する側とされる側との間に人間関係が垣間見える。贔屓する側は相手のために尽くすし、される側はそれに応える義務が発生する。
 いっぽう、「推し」の説明は「俗に、人にすすめたいほど気に入っている人や物」とあり、用例として「推しの主演ドラマ」が挙げられている。そこには推す側と推される間の人間関係は見えない。だから「推す」相手は人間でなくてもいい。
 「推し活」という言葉は、活動する「自分自身」の側に焦点が当たっている。「推しが人生を潤す」などと言われるように「推し活」は基本的には自分のために行うことなのだ。「推しがいないと恥ずかしい」「推し疲れ」といった悩みも、すべて「推す側」で閉じた問題である。(中本千晶の「タカラヅカ、『推し』か『贔屓』か?」『推し活!展―エンパクコレクションからみる推し文化』リーフレットより)

贔屓が人間同士の関係であるが故に双務的であることが要件に挙げられ、それとの対照で、「推し」の対照は必ずしも人間である必要は無く――例えば、漫画・アニメーションやゲームのキャラクターであろう――、それ故に「すべて『推す側』で閉じた問題」と指摘されているのが興味深い。
「『推し活』の現在」と題した第2会場の一角では、2.5次元ミュージュカル『刀剣乱舞』が紹介され、急成長を「推し活」が支えたと説明されていた。「2.5次元ミュージュカル」は、ゲーム(等)のキャラクター(2次元)を俳優が演じる舞台作品(3次元)である。とりわけ『刀剣乱舞』の場合、日本刀が擬人化され、さらに俳優がキャラクターを演じる形で、二重の擬人化が行われている。「推し」が人間である必要はないならばなおさら、二重の擬人化という現象の持つ意味が気になってしまう。あるいは「私たちがシステムのようになりつつある」ことへの反発であろうか。

 〈私たちは人間でなくなりつつあります。テクノロジーが人間らしくなっているからではありません。テクノロジーを使うことで、人間らしさを失っているのです〉
 ガブリエル〔引用者註:ドイツの哲学者マルクス・ガブリエル〕氏は、やがてAIが人間の知能を超える「シンギュラリティー」(技術的特異点)が来るとする仮設に対し「全く恐れていない」と語った。AIは人の思考のプロセスや行動をモデル化するが、「シンギュラリティーとはAIが(モデルを超えて)生命体となることであり、不可能だ」と見るからだ。注目を集める対話型AI「チャットGPT」については「間違いが多いが、それは生物学的ではないからだ」と説明した。
 それよりもむしろ、人間にとっての本当の脅威は、チャットGPTを使ったり、ネットに接続したりする時間が増え、「非デジタルの現実に費やす時間がさらに減ってしまう」ことなのだという。ガブリエル氏が比喩に使ったのが、米国のSFドラマ「ウエストワールド」だ。人間と見分けのつかないロボットが登場するこのドラマを「(俳優の)人間が『人間を演じているロボット』を演じている」と表現し、同じことが私たちの現実に起きていると指摘した。
 ガブリエル氏は「私たちがシステムのようになりつつある」と語ったが、生身の現実を数学的な思考でモデル化したデジタル空間やAIの思考モデルの枠組みに、私たち自身が縛られていくことへの警告だと言える。(岩佐淳士「デジタルを問う 欧州からの報告 技術が現実を変容」『毎日新聞』2023年7月17日月曜日3面)

推しが従来のファンと異なる独自性を有するとすれば、SNSなどインターネットの技術の活用がその背景にあることは疑いない。例えば、K-POPファンダムは「推し活」の固有性を明らかにするのに参考になろう。

 ファンダムとは、人々が愛するさまざまな文化の周囲にできあがる構造や習慣を指す言葉である。儲けを考えないで時間やエネルギーをつぎ込むファンたちの一連の行動から生まれる。ソーシャルメディアの普及によってファンダムに根差した自己表現や情報戦、送り手との駆け引きを誰もが安全に楽しめるようになった。現愛のファンダムは、その起源を反映して、対抗文化的で抵抗的」な価値観を持っているが、商業的かつ資本主義的な文化的、技術的生産の形態とも絡み合っている。トップダウンからボトムアップへ、草の根から商業主義へといった絶え間ないコンテンツの還流と拡散がメディア空間の再編成を引き起こしている。(吉光正絵「K-POPファンダムの社会学 日本の女性たちの「遊び」の変遷」『ユリイカ』2018年11月号〔第50巻第15号〕/2018/p.46)

K-POPの隆盛はインターネットの発展と重なり、そこにファンダムの関与する余地が生まれた。

 インターネットのインフラ整備が日本より早かった韓国ではファンダムがインターネットに場所を移すのも早かった。日本のようにファンに向けて情報を発信したり、会報誌を発想するといった機能を持たない公式ファンクラブに代わって、韓国ではファンが独自に運営するインターネットサイト(ファンカフェ)がその役割を果たす。たとえば音楽番組の観覧やイベントへの参加申し込み条件はファンカフェで発信され、コンサートの小岩に贈られる米花輪(花輪の代わりに米を贈るもの。アイドルの名義で児童養護施設などに寄付される)や差し入れ(飲食物の差し入れは安全の観点からマネージャーが指定した業者のみ利用可。再起は現地でできたてを食べてもらえるフードトラックの差し入れが流行中)など、ファンダム名義で行うイベントはファンカフェが取りまとめることが多い。(略)
 そもそも、なぜK-POPにはこれほどまでに海外ファンが多いのか。先に述べたように、韓国の音楽市場の問題〔引用者註:国内市場の規模が小さい〕で海外進出を早くから展開していたからという理由もあるが(そのためかK-POPグループには以前から中華圏やタイ、アメリカ出身のメンバーが多く在籍している)、その要因のひとつはインターネットにある。まずはじめに、動画配信サイトYouTubeK-POPグローバル化に欠かせないツールとして機能したことが大きい。(略)同時に、アメリカを中心に流行しているライブリアクション動画(ライブを観ながら同時にその反応を映したもの)を流すK-POPファンが増えたことも大きい。K-POPアイドルのオファーマンスを流しながら英語で解説する彼らの動画のおかげで、K-POPと言うジャンルは長らく突破できなかったアジア圏を越え、欧米に到達するまでに至った。(略)
 (略)K-POPを海外に向けて発信しているもうひとつの要因は、実はファンダムの中にある。”マスター”と呼ばれる存在だ。マスターは、韓国ではホムマ(ホームページマスター)と呼ばれていることからもわかるように、自分のサイトで撮影したアイドルの写真を発表している人たちのこと。サイン会やイベント、コンサート、テレビ局などアイドルがいる場所に出向いては彼らを超望遠カメラで捉えることを主な活動としている。(略)そうして撮影した写真は彼女たちのSNSやサイトにアップされ、マスターが取った写真を心待ちにしているファンたちによって世界中に拡散されていく。(尹秀姫「K-POPファンダムの変容」『ユリイカ』2018年11月号〔第50巻第15号〕/2018/p.55-57)