可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『エフェメラ:印刷物と表現』

展覧会『エフェメラ:印刷物と表現』を鑑賞しての備忘録
慶應義塾ミュージアム・コモンズにて、2024年3月18日~5月10日。

チラシやパンフレットなど時限的な情報伝達媒体「印刷物のエフェメラ」として、南画廊のリーフレット、草月アートセンターの機関誌、Art & Project画廊のニューズレターを展観するとともに、河口龍夫と冨井大裕によるエフェメラを素材にした作品を紹介する2部構成の企画。

河口龍夫は、自らの個展のポスターに手を加えた作品を出展している。『河口龍夫 封印された時間』展(1998)のポスターは、森の開けた場所に置かれた黄色いテーブル上の密閉した容器を捉えた写真に、タイトルなどの基本情報が白い文字で上部に記載されたものである。《闇 封印 時間》(2024)は、「封印」・「時間」の文字と、作品部分のみを残して黒く塗り潰してある。種のアナロジーでもある作品に時間=生命が封印されていることを示す。《宇宙探査機ヒマワリマムサス号》(2024)ではテーブルと作品以外を墨塗にして白い点を全面に施し、星々が瞬く宇宙を漂う宇宙探査機を表現している。作品である容器=人、テーブルが表す人の住環境、森の自然環境はそのまま宇宙へ連続していること、輝く星には光の移動=時間とともに、産むために死ぬことが不可避な生命を重ねているものと解される。黒い闇に包むことで封印された内側を覗き込むようにも見える2024年の2作品と対照的に、1998年の3作品では、イメージを透かし見ることができる白い靄が立ち籠め、茫漠としながらも明るい世界が広がる。《時間のポスター》(1998)ではその題名通り「時間」の文字が目立つように縁取られ、作品を載せたテーブルより上の部分が直方体状に切り取られるように「靄」で覆われている。曖昧な時間を捉えようと切り分けるようである。《封印 時間》(1998)ではテーブルの天板と作品のみを塗り残して白い靄で覆われた画面の「封印」と「時間」の文字が強調される。テーブルの脚の消去は思考の足場の喪失を、テーブルの天板はそれでも存在を捉えるときに不可避に想定されてしまう場を表現するようだ。《封印に向かうポスター》(1998)では作品の置かれたテーブルの辺り(画面右下部分)を残して白い靄が立ち籠めている。世界を白い靄で封じようとするとき、その動作の担い手とは何か。赤瀬川原平の宇宙の缶詰のように、全てを封印することは可能かという問題を提起するように見える。
《《陸と海》――そしてその外側――》(2015)は波打際の4本の木材を捉えた写真《陸と海》(26点組のうちの1点)の周囲に広がる風景を鉛筆で描き足した作品。封印の作品に対し、拡張・拡散の作品である。《紙にもどったポスター》(2022)は『河口龍夫 無呼吸』展(2021)のポスターの全面を白く塗り潰した作品。無へと還元されたという点で、《《陸と海》――そしてその外側――》と対照的な作品である。

冨井大裕の《PS(KO-1)》(2024)は、『河口龍夫 無呼吸』展(2021)の案内状(葉書)を切って折り曲げてステープラーで止めた立体作品。河口がエフェメラ(ポスター)に描画を重ねて三次元や四次元のイリュージョンを現出させながら、いずれも1枚の紙に過ぎないことを自ら暴露したのに対し(因みに冨井が紙幣を切ったり折ったりして立体作品とした「abstraction」シリーズも、紙幣が紙に過ぎないことに眼を向けさせる側面がある)、冨井は平面である紙を立体として立ち上げることで、高次元の世界を表そ(エフェメラのイメージが表現する三次元ないし四次元と、作品としての三次元を掛け合わそ)うとしているのかもしれない。それは葉書を素材としているがゆえに、追伸(postscript, PS)であり、時間の延長として河口に応答しているとも言える。