可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 冨井大裕・堀内正和二人展『拗らせるかたち』

展覧会『冨井大裕・堀内正和二人展「拗らせるかたち」』を鑑賞しての備忘録
ユミコチバアソシエイツにて、2023年6月17日~8月5日。

冨井大裕が堀内正和(1911~2001)の彫刻に自らの作品を取り合わせる企画。

冨井大裕の「NR」シリーズは、罫線や方眼の入った紙を組み合わせた作品。壁に3点が貼られている。《NR#19》は横罫の黄色い紙と白い紙を縦にややずらして並べ、両者を縦に引いた朱の線がつなぐ。その朱線に左端を合わせて方眼の紙を重ねている。《NR#12》は横罫の白い紙の上に横罫の黄色い紙をずらして半分ほど重ね、さらに両者に跨がるように縦罫の便箋を斜めに重ねている。《NR#13》は、種類の異なる横罫の白い紙2枚を僅かに重ね、下に位置する紙にはさらに黄色い罫線の紙を貼り重ねている。種々の罫線や方眼が作る表情を楽しむという点では紙のコラージュである。他方、いずれの作品でも紙それ自体や穿たれている穴や(冊子から切り取った際の)端のギザギザが作る僅かな影がルーチョ・フォンタナ(Lucio Fontana)よろしく平面から空間への転換を示しもする。彫刻としては、罫線による重力の暗示しながら、床や台座から解放された軽やかさを纏わせている。

堀内正和の《立方体(線)》は、18cmの角形の金属を12本組み合せた立方体。錆が表情を作っているとは言え、取り付く島もない無機質な作品である。ルネ・デカルトが物体の本性とする「延長」(長さ、広さ、深さ)を暗示することで、彫刻の根源的な要素を表現するのだろうか。これと並べて床に置かれているのは、冨井大裕の《トルソ、或いはチャーハン#8》。《立方体(線)》と同じくらいのサイズのコンクリート・ブロックの溝に黄、青、オレンジ、赤の靴下を重ねて垂らしている。タイトルの「チャーハン」に引き摺られ、コンクリートブロックと靴下がサンドイッチから食み出す具やソースのイメージを連想させる。すると、《立方体(線)》のつくる影が立方体を作る線から流れ出し、立体(立方体)が平面(影)となる。

堀内正和の《立方体のそとがわ》は、立方体を斜めに裁断した部分同士をずらして組み合わせた形状のステンレススチールの作品。台座に設置されている。紙によるマケット「ペーパー・スカルプチュア」から発想されたと思しき作品である。冨井大裕の《彫刻の気分#4》は3つの三角形を組み合わせた石膏像で、壁に取り付けられている。石膏は塗ってあるのは段ボールであり、「ペーパー・スカルプチュア」に通じるものある。

彫刻は石が語り、木が語る。石には、石の文法があり、木には、木の文法がある。肉体の文法によって石に語らせようとするのは、悪しき翻訳である。良き翻訳家は二つの言語に精通していなくてはならない。とくに移しなおす言語の文法は自分の呼吸と同じくらい、無意識に語れるほど、のみ込んでいなくてはならない。石の文法を体得するには、三度の食事のように、石になれ親しんでいなければならない。(「BICEPSの日記から」『白山文学』[東洋大学]1951年11月25日より)(長門佐季他編『彫刻家堀内正和の世界展図録』神奈川県立近代美術館他/2003/p.19)

冨井大裕は、木製の割り箸の端を2回L字に挟み合せて《3膳の箸》を、ブックエンドを2つ重ね合わせて《GG》を、ステンレス製のバスケットに靴下(白、黒、灰、茶)をワイヤークリップで留めて《ストレッチレリーフ#1》を制作し、それらを壁に設置している。とりわけ箸や靴下などは「三度の食事のように」「なれ親しんでい」る日用品である。体得している日用品の「文法」を用いて、それが持つ「原初的な想像力を取り戻す」ように組み合わせ、配置する。そこにポエジーが生じ、日用品が芸術作品(彫刻)へと転換する。

 (略)ところが詩人は決してことばの多義性に逆らうようなことはしない。詩において言語は、散文や日常的談話に帰順することによってもぎとられていた、原初的な想像力を取り戻す。この本然性の回復は全体的なものであって、それは意味表現の価値に対すると同様、音楽的、そして造形的価値にも影響を及ぼす。ついに解放されたことばは、熟した果実のように、あるいは空中で爆発する花火のように、その内部のすべてを、そのあらゆる意味や暗示をさらけ出す。詩人は自らの素材を解放する。散文家はそれを拘束する。
 同じことが形や音や色に関しても起こる。石は彫刻において勝利を収め、階段のなかで屈従する。色は絵画のなかで光り輝き、肉体の運動はダンスにおいて美しさを増す。道具の中で征服された、あるいは歪められた素材は、芸術作品において本来の光輝を取り戻す。詩的操作は技術的処理の反対である。前者のお蔭で素材はその本質を回復する――色はより一層色となり、音はさらに完全な音となる。詩的想像のいては、職人たちの虚しい美意識が求めるような素材や道具に対する勝利などは存在せず、あるのは素材の解放である。ことば、音、色、そしてその他の素材は、詩の領域に入るやいなや変質をこうむる。それらは意味や意志の伝達手段であることをやめずに、〈他のもの〉になるのである。その変質は――科学技術の場合とは異なって――その本然的な性質を放棄することではなく、それに戻ることである。〈他のもの〉であるとは〈同じもの〉――そのもの自体、本当に元来そうであるところのもの――であることを意味する。
 さらに言えば、彫像の意志、絵画の赤、詩のことばは、単に純粋な意志、色、ことばではない――それらを越え、それらにたち優った何かを具現しているのだ。それらはまた、本来の価値と原初の重みを失うことなく、われわれを彼岸へと導く橋のようなもの、でもあるのだ。両面価値的存在である詩語は、十全にその本来あるべきもの――リズム、色、記号内容――であると同時に、またそれ以外のもの――イメージ――でもある。ポエジーは、意志、色、ことば、そして音をイメージに変える。イメージであるというこの二番目の特徴、そして聞く人に、あるいは見る人にイメージの星座を喚起するこの奇妙な力は、あらゆる芸術作品を詩に変える。(オクタビオ・パス牛島信明〕『弓と竪琴』岩波書店岩波文庫〕/2011/p.33-34)

作家は、日用品の「本然性」を回復させるために、それを歪められていない状態としての「延長」として把握しているのではないか。その行為を「拗らせる」と呼ぶのだろう。「拗らせる」ことそのことによって日用品を解放し、リズム・色・記号内容をイメージに転換する。結果として日用品による詩作、すなわち彫刻が生み出されている。