可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 水口鉄人個展『イリュミナシオン』

展覧会『水口鉄人「イリュミナシオン」』を鑑賞しての備忘録
駒込倉庫にて、2023年9月9日~10月1日。

明るい白色の画面にとりどりのくすんだ色の絵具を散らした油彩画10点、木炭によるドローイング6点、ブロンズの彫刻3点で構成される、水口鉄人の個展。油彩作品の絵具には蝋が混ぜられ、ドローイングやブロンズは指での描画・造形が分明であるように、光をテーマに掲げながら、いずれの作品も触覚に訴えかけるのが印象的である。

《夕もや》は、明るい白を平板に塗り込めた画面に、やや暗い白、青や紺、緑、黄、茶などの絵具が、左下から右上の対角線附近に集まる形で散らされている。擦れや撥ねの向きが躍動感と軽やかさを生みつつ、絵具に混ぜられた蝋が物質として存在感を放つ。一見したところサム・フランシス(Sam Francis)のような抽象画を思わせる。だが左上に点じられた赤い点が夕陽として目に入ると、夕靄によって視界に入る物の形は曖昧になり、その色だけがぼんやり姿を見せる風景に見えて来る。《沐浴》では木の幹や地面、あるいは繁み、《海》では海面と白い波濤がよりはっきりと形をとって現われており、具体的な光景がモティーフとされている作品が含まれていることは間違いない。
他方、《ソネット》では白い画面の中央付近にくすんだ紺、緑、紫、茶などの絵具が筆を撫で付けたように配される。色味や位置やサイズをある程度揃えているのは、余白の広さと相俟って、定型詩のイメージを生み出すためだろう。

 形を成さず顕れるヴィジョンは、より本源的だと思われる。意識のフィルターを経ていないからだ。いわば「何か」は「素のありさま」で顕現している。それは一種のエネルギー体であり、古来、形而上的な「光」として直観されてきた。いわば神的光である。これは夢の中の「光」と同種であり、網膜を介さず感得するものだ。なぜそのようなことが可能なのか。それは私たちが「光」を作れる存在だからだ。だとすると「光」には二種類あることになる。ひとつは網膜に映る物理的な自然光であり、もうひとつは網膜を介さない「不可視光」である。不可視の光をどうやって可視化するか。ここで重要な働きをするのが絵画である。画家は内的な不可視光を色彩に変換し可視化する。ただ注意しなくてはならないことは、不可視光は画家の内面において「情動」として保たれているということだ。つまり未分化な「エネルギー体」の状態でうごめいている。うごめく内なるものは外的な刺激に反応し、発露する。刺激は外在するエネルギーによってもたらされる。これは自然や宇宙の諸力である。画家は、はるかかなたの星の運行や大気の動き、水の流れ、潮の満ち引きなどに反応して内的光として発露した様を画面に定着させる。「宇宙の諸力」の中には霊的力も含まれる。それが画家の内面に作用し、発光する。それを第三者にもわかるように絵画化する。こうなると画家はシャーマンに誓い存在となる。(江尻潔「顕神の夢」江尻潔・土方明司企画・監修『顕神の夢―幻視の表現者』顕神の夢展実行委員会/2023/p.347-348)

目にした風景を想起するとき立ち現われるイメージは、網膜を介さずに得られる光景であり、そのときも自ら光を生み出していると言えないだろうか。作家はたとえ景観を題材にしてもカメラとして再現するのではないため、夕靄も沐浴もソネットも同じ形式で絵画化できるのだ。イリュミナシオン(illumination)は照明ではなくアンスピラシオン(inspiration)であり啓示なのだ。

《母音》は、明るい白の画面に、他の油彩画とは異なってとりどりの色は置かれず、クリーム色の絵具だけがのたうつ。画面の中に陰影がよりくっきり浮かび上がる。そのとき、指先で粘土をいじった跡が残されたブロンズ作品《低い彫刻》との相似が見えて来る。油彩画もブロンズ像もともに陰影(明暗)と手の動きとを伝えるための作品なのだ。そのことは木炭のドローイング作品「エクササイズ」シリーズによってさらに裏付けられる。木炭の粉をスケッチブック上で動かした跡が画面に明暗を生んでいるからだ。手の運動によりもたらされる明暗とは、網膜を介しない光のことであった。ぐじゃぐじゃとした混沌――自らの内部、精神――に手を伸ばすと、確かにそこには光がある。その不可視の光を、作家は作品に表わしている。