可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『バーナデット ママは行方不明』

映画『バーナデット ママは行方不明』を鑑賞しての備忘録
2019年製作のアメリカ映画。
108分。
監督は、リチャード・リンクレイター(Richard Linklater)。
原作は、マリア・センプル(Maria Semple)の小説『バーナデットをさがせ!(Where'd You Go, Bernadette)』。
脚本は、リチャード・リンクレイター(Richard Linklater)、ホリー・ジェント(Holly Gent)、ビンス・パルモ(Vince Palmo)。
撮影は、シェーン・ケリー(Shane F. Kelly)。
美術は、ブルース・カーティス(Bruce Curtis)。
衣装は、カリ・パーキンス(Kari Perkins)。
編集は、サンドラ・エイデアー(Sandra Adair)。
音楽は、グレアム・レイノルズ(Graham Reynolds)。
原題は、"Where'd You Go, Bernadette"。

 

黄やオレンジのカヌーが海に漕ぎ出していく。1艇が集団を離れ、氷山に囲まれた海を進む。一人になった漕ぎ手は漕ぐのを止めて氷海に漂い、輝く氷塊を眺める。
脳は割引機構のようなものだって聞いたことあります? 例えばプレゼントされたのがダイヤのネックレスで、すごく気に入る。初めはとびっきり幸せで、次の日も幸せ。でもちょっぴり幸せが薄れてる。1年後には同じネックレスを見て、ああそんなのあったなって。じゃあ、なぜ脳が割引機構を持ってるか知ってます? それは生き残るためです。危険に勘付くように新しい経験に備えなくちゃならないから。サーベルタイガーに襲われる危険がないなら、そんな機能なくしちゃえって思いません? 脳の初期設定が喜びや感謝の代わりに危険や生存のための信号だなんて設計ミスみたいじゃないですか。それが私の母に起こったことです。母は危険信号を捕まえようとすることに囚われて人生の良い面を見られなくなってしまったんです。たぶん父も、母のダイヤモンドの輝きを見失ってしまいました。
5週間前。シアトル。雨が降りしきる。市指定の歴史的建造物である、かつて女子校だった建物は雨漏りがする。随所に天井からの水滴をうける鍋がある。台所ではバーナデット・フォックス(Cate Blanchett)が濡れた床を拭いている。私の強度がどの程度か分かってる? あなたが寄宿学校に行きたがってるから心臓が軋んでるの。寄宿学校に行って欲しくないなら、楽しそうに話さなきゃ良かったの。娘のバラクリシュナ・ブランチ(Emma Nelson)に反論されて、バーナデットは確かに私が悪うございましたと娘にタオルを投げる。近くに立っている夫のエルジー・ブランチ(Billy Crudup)はラップトップに向かって開発中のアプリケーション・プログラムの修正に余念が無い。中学でずっと完璧な成績だったら卒業祝いに何でも欲しいもの買ってくれるって言ったの覚えてる? そんなこと言ったっけ? エルジーはバーナデットに確かめる。ポニーを欲しがってるのを黙らせるためだったんじゃない。それはちっちゃいときの話。今は全然別のものが欲しい。知りたい? 知りたくない。家を出る必要がある? 南極への家族旅行! クリスマス休暇で旅行しないと。ひと月くらい? まあ確かに南極は夏だよな。行くなら今だ。ポニーは可愛いし、思ってるほど手がかからないかも。どういうこと? 時期が悪いんじゃないかって、プロジェクトも抱えてるでしょ。南極について学んだの。あらゆる探検家の日誌も読んだ。アーネスト・シャクルトンについて発表する予定。氷床が崩壊して氷が無くなっちゃう前の今がチャンスだよ。二人が反対しないのが信じられない。君次第だよ、旅行を嫌がるだろ。あなた次第でしょ、プロジェクトがあるんだから。じゃ、行くって決まりだね! 待って、本当にいいのか? うん、まあ、事前の取り決めに従えばそうなるわね。娘は望みが叶い喜ぶ。
何かで読んだんですけど、イルカって、同盟者、敵対者、用心棒、勧誘者で構成される複雑な社会秩序の中で活動しているとか。マフィアや高校とほとんど変わりないってこと。時には戦い、尻尾で殴り合うんですよ。賢い生きものが奇妙な社会構造に組織されるのってなぜなんでしょうね? オードリーはゲイラー・ストリートで何でも手掛けてます。多様性評議会を起ち上げ、児童向けのマラソン大会を計画し、父親と子どもたちが交流する朝食会を開きました。母はかつて幼稚園のボランティアに登録したことがありましたが、他のイルカに殴られたでしょうね。
隣家のオードリー・グリフィン(Kristen Wiig)が業者(Patrick Sebes)とバーナデットの敷地の斜面に入り込んで、鬱蒼と繁るブラックベリーの駆除について話し込んでいるのに、郵便物を取りに出たバーナデットが気付いた。豚を使うのも手ですね。豚? 1週間もしないうちに根刮ぎにしてくれますよ。お手伝いできることはあります? バーナデットが話しかける。バーナデット、ご在宅だったのね。ブラックベリー駆除の専門家のトムを呼んだの。草刈りをして冬の花を植えてたのよ、ゲイラー・ストリート校の食事会の準備よ、お子さんが学校に上がる親御さんたち向けのね。メールは読んだかしら? 読まないに越したことは無いわね。ブラックベリーの蔓が壁の下にまで伸びていましてね、この辺りでは珍しいことじゃありませんが、竹のように蔓延って極めて厄介なんですよ。最善の策を検討しているところです。トムです。名刺を差し出す男。バーナデット・フォックス。名刺はナシ。堆肥積みにも蔓が出てるの、野菜を植えたところとか、温室とかコンポストにもね。これだけの量を斜面で取り除くには…。有毒なものは避けたいわ、除草剤みたいな。でも豚は使いたくないんですよね。アーム式の草刈り機を取り付けたトラクターを使うことになりますね。私は持っていないのでレンタルしなくてはなりません。あなたがここでブラックベリーを除去して頂いて構いません。これで落着ね。豚がいたら不法侵入で捕まえるけど。バーナデットが立ち去る。
バーナデットは身支度を整えながら、スマートフォンに音声入力で、インドのマンジュラ宛にメールを書く。マンジュラ、予期せぬ事態が発生したから時間外でも働いてもらいたいわ。インドか今何時だか知らないけれど、対応可能なら可及的速やかに知らせて欲しいの、あなたのヒンドゥーの魔術が巨大プロジェクトに必要なのよ。取り繕うのは止めるわ。大惨事よ。エルジーと私が娘に南極に家族旅行することを約束してしまったの。行きたくない理由は数え切れないほどあるけど、一番は人に囲まれること。最小の客船でも150人の乗客いるらしいから、147人の他人と閉じ込めれることになる。不躾で意味の無い絶え間ない愚痴や退屈な世間話、訳の分からない食事の好みなんかでイライラさせられることになるわ。さらには私に好奇の眼を向けて、勝手に見返りを期待するのよ。考えただけでパニック発作が起きそう。でも社会不安症のせいで他人が傷つくなんてことはないでしょう? バーナデットはカーペットが盛り上がっている部分に気が付く。カッターを取り出してカーペットを切り取ると、床から飛び出した蔓を表に出してやる。連絡先を伝えるから、シアトルから南極に3人が行くのに必要な申請書類、ビザ、航空券、その他諸々を用意してくれない? 持ち物の推奨リストにあるものは全て。クレジットカード払いで。そう、マンジュラ、非常に重要なことを1つ忘れてたわ。フィッシングベストが欲しいの。分かるでしょ、ジッパーが付いたポケットが沢山付いているやつ。どうやら庭のブラックベリーを駆除しなくちゃならないみたい。早ければ早いほどいい。お隣のオードリーは私の庭を散策することなんて考えもしない。誰がそんなこと! オードリーは娘の飼う犬のアイスクリームの鳴き声を耳にする。鳴き声がするのは使われていないためにドアが閉め切られた小部屋だった。どうやって入ったのかしら。すぐに出してやりたいが娘を迎えに時間になった。困ったことになったわね。アイスクリーム、そこで待ってなさい。
ゲイラー・ストリート校の前。バーナデットが車で娘を待つ。

 

バーナデット・フォックス(Cate Blanchett)は、「二焦点の家」、「20マイルの家」などの独創的な建築や、ミュージアム・ピースとなる家具デザインで若くして注目を集めた建築家だったが、社会不安症となって早々に引退し、シアトルのかつて女子校だった老朽化した建物に引き籠もっている。夫のエルジー・ブランチ(Billy Crudup)はディズニーのアニメーターであったが、マイクロソフトに引き抜かれ、思考に同期するアプリケーションの開発に勤しんでいる。寄宿学校に進学予定の娘「ビー」ことバラクリシュナ(Emma Nelson)にせがまれてクリスマス休暇に家族で南極旅行することになったが、バーナデットはすぐさま不安に駆られる。強い薬に頼ろうとして薬剤師(Richard Robichaux)に止められると、旅行に行かずに済む言い訳を考え始める。ゲイラー・ストリート校のために献身的に活動する隣家のオードリー・グリフィン(Kristen Wiig)とはとりわけ反りが合わず、越境しているブラックベリーの伐採を巡り一悶着が起きる。

(以下では、冒頭以外の内容についても言及する。)

バーナデットは若くして頭角を現わした天才建築家。だが「20マイルの家」――半径20マイルで入手可能な資材だけで建築する。但し、域内で出た廃棄物の再利用は可能――の解体を巡る一件が彼女の人生を狂わせた。
バーナデットにとって手掛けた建築は子に等しい。その建築の解体は大きな喪失感を生んだ。だが建築家のポール・ジェリネック(Laurence Fishburne)が指摘するように「20マイルの家」の破壊は現代建築保護制度を誕生させることになった。
複数回の流産の末に生んだバラクリシュナ――インドの神に因んで名付けられた――もまた創造と破壊の象徴でもある。
バーナデットは、18回奇蹟を目にした聖ベルナデットと結び付けられる。
バーナデットの隣人オードリーは、社会不安症のバーナデットの視点から極めて厄介な人物として描かれる。

 (略)たとえば、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』(1813年)や『エマ』(1815年)の読者であれば、エリザベス・ベネットやエマ・ウッドハウスといった、魅力的なヒロインの一挙手一投足を追いかけることに夢中で、ケアラーがどれほど矮小化されているか考えながら読まないだろう。しかし、母親ミセス・ベネットに対するエリザベスの冷ややかな態度に注視してケアラーの心情に思いを馳せると、なんだか複雑な気持ちになる。たしかに、才気煥発なエリザベスと比較すると、娘たちの未来の夫探しに奔走して、軽率な言動を繰り返す母親は読者にとっても嘲笑の的でしかない。ただし自戒の念を込めて書くとすれば、エリザベスが辟易するこの欠点の多い母親がじつは娘5人を育て上げたのだということを心に留めておきたい。『エマ』にも、ヒロインの輝くような若さと対照をなす未婚の中年女性ミス・ベイツが登場するが、彼女のことを覚えている読者は少ないだろう。ミス・ベイツは母親を介護するケアラーで、けっして人を傷つけない、心の広いキャラクターである。エマと比べると「彼女は貧しくて、生まれたときの安楽な境遇から落ちてしまっているし、これから年をとってゆけば、もっと落ちぶれる」だろう。そんな彼女をエマは嘲笑の対象にしてしまうのだが、そのことでエマは後の結婚相手ミスター・ナイトリーに注意を受け、初めて自分の思慮のなさに気づくのだ。(小川公代『ケアする惑星』講談社/2023年/p.8-9)

オードリーは地元の人々のために奮闘する人物である。ケアの観点で眺めてご覧、彼女の別の側面が見えるよと、バーナデットの苦境の脱出に一役買うオードリーの姿を示すことで、思慮に欠けるバーナデットに――ひいては映画の観客に――気付かせてくれるのだ。