可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 アガタ・スウォヴァク&アレクサンドラ・ヴァリシェフスカ二人展『天国と地獄の結婚』

展覧会『アガタ・スウォヴァク&アレクサンドラ・ヴァリシェフスカ「天国と地獄の結婚」』を鑑賞しての備忘録
BLUM東京にて、2024年3月23日~5月2日。

アリソン・M・ジンジャラス(Alison M. Gingeras)の企画により、ウィリアム・ブレイク(William Blake)の詩のタイトルから採用された『天国と地獄の結婚(A Marriage of Heaven and Hell)』を冠して、ワルシャワを拠点にする2人画家アガタ・スウォヴァク(Agata Słowak)とアレクサンドラ・ヴァリシェフスカ(Aleksandra Waliszewska)との作品を展観。

アレクサンドラ・ヴァリシェフスカの作品は一部を除き無題である。《Untitled》(600mm×803mm)(2023)には、元は柱や梁か、画面下端でいくつもの杭が炎を上げ、右上の方へ煙が上っていき、空には火の着いた煙草を加えた黒猫の顔だけが浮かんでいる。黒猫が町に火を放ったようにも、燃えた町の火で煙草に火を着けたようにも見える。《Untitled》(552mm×403mm)(2022)の緑で塗り潰した画面には長い黒髪の裸婦が、左頬を左肩に着け、大きな右掌で腹を押えて佇む。頭部には黄色い角ようなものが覗き(頭髪の剃り込んだ部分が黄色くなっていて)、耳は尖る。魔女である。画面上部を大きく開け、女性の太腿より下を描かないのは、飛翔のイメージを喚起させるためでもあろう。《Untitled》(498mm×702mm)(2023)には、動植物や矢の刺さるハートをデザインした染付のような(クロスを敷いた?)台に全身が黄色い人物が蹲っている姿が表わされる。鑑賞者の側に向ける顔は笑っているように見える。髪は逆立ち、炎のようである。周囲には無数の白馬が画面中央に向かって対峙する。馬たちの群れる曠野の先には森がシルエットとなって見える。その向こうでは炎と煙とが上がるが、雲のかかる紫色の夕空と渾然となる。《Untitled》(702mm×498mm)(2023)の淡いピンクが模糊として広がる画面には、両目が宙に浮かんでいる。目からは血が流れている/たように見える。画面下部のピンクが暗く濃くなった部分には、白馬が頭だけを突き出している。画面は女性の体内で、男性を象徴する白馬がその中に侵入したようだ。《Untitled》(552mm×460mm)(2023)の右下には波打際に俯いて立つ裸の男性の後ろ姿が表わされる。彼の目の前にある海には、彼を仰視する顔(目・鼻・口)が見える。画面の半分以上は雲がかかったどんよりとした空で、男性の頭部の高さに見える水平線だけ黄ないし橙に明るい。《Untitled》(600mm×1003mm)(2023)には左側に背を向けて立つ金髪の女性と、彼女に向かって右前肢を軽く上げる白馬の姿とが描かれる。女性の白い肌と豊かな金髪、さらには朱のピンヒールとが、白馬の輝くような鬣や尾、朱の蹄とに対応する。女性の股間から迸るものがある。それは、白馬の右前肢が象徴するペニスが抜かれた後の状況だろう。
上に挙げたアレクサンドラ・ヴァリシェフスカの作品に共通するのは、《Untitled》(552mm×403mm)(2022)で示される魔女であろう。白い馬を男性ないし男性器とすれば、多数の男性を受け容れる炎のような女性(《Untitled》(498mm×702mm)(2023))、白馬≒男性器を体内に挿入した女性(《Untitled》(702mm×498mm)(2023))、今にも男性を呑み込もうとする女性(《Untitled》(552mm×460mm)(2023))、そして、白馬=男性との性行為後の女性(《Untitled》(600mm×1003mm)(2023))が描かれていると言える。性的な放縦さは魔女に結び付けられているからである(例えば、サバトにおける乱交。池上俊一魔女狩りヨーロッパ史岩波書店岩波新書〕/2024/p.136参照)。また《Untitled》(600mm×803mm)(2023)に描かれる猫もまた魔女の表象と考えることが可能である。なぜなら、魔女には変身能力があるからである(猫と狼とが典型。池上俊一魔女狩りヨーロッパ史岩波書店岩波新書〕/2024/p.13-14参照)。

アガタ・スウォヴァクの《Family Zone》(902mm×1200mm)(2023)は曠野で裸の女性が男性の遺体を抱えて坐り、家畜を解体するように、遺体から心臓や肝臓や腸を取り出す姿を描く。女性は切り拓かれた胸と腹とに手を当て、鑑賞者の側を見詰める。遠くの枯れ木には首を吊るために用いたロープが2つ掛かり、近くの墓場には2本の十字架が立つ。《Autoportrait with Some Carcass》(502mm×400mm)(2023)は頭部を切断し血飛沫が上がる獣を掲げる作家の自画像。《Family Zone》の女性同様、鑑賞者を見据える。《Your Own Personal》(803mm×600mm)(2023)には頭部と左手の指に茨を冠や指輪を付けて血を流す女性が描かれる。臍の周囲には女性器を表わす記号が血で記されており、「クリスタ」(救世主を女性として表わした、エドウィナ・サンディースのブロンズ彫刻が《クリスタ》と題されたことに因み、女性としてのキリストのこと。岡田温司『キリストと性――西洋美術の想像力と多様性』岩波書店岩波新書〕/2023/p.102参照)であることが分かる。《R.I.P.》(502mm×400mm)(2023)はペニスを摑む左手の指が釘により打ち付け固定された様を描く。《My Beautiful Bro Kacper with a Crow》(502mm×400mm)(2023)は烏の雛を胸で抱える男性と、その背後にいる作家とを描いた作品。仮に烏でさえ神が養って下さるという聖書のエピソード(『ルカによる福音書』第12章24節)に因むものであれば、男性に神=救世主のイメージが重ねられていることになる。そして男性=キリスト、烏=精霊とすれば、その二者の背後に立つ女性は――三位一体を前提とするなら――神に擬えられることになる。《There's a Fckn Goats Outside》(803mm×600mm)(2023)には頭部の傷ついた仔羊を抱き涙を流す女性を描く。傍らには墓穴のような穴、そして草原には悪魔のような黒山羊たちが暗い空を背景に立ち上がっている。仔羊を救う女性には「クリスタ」のイメージが重ねられているようだ。アガタ・スウォヴァクの作品に共通するのは、男性中心のキリスト教の観念を女性の方に引き付けようとする力である。その力は既存の権力からすれば価値転倒であり、不埒なものに映る。作家はその禍々しさを敢て具象化してみせている。

 ちょうど囲い込みが農民から公有地を奪ったのと同じように、魔女狩りは女性からその身体を奪ったのである。こうして女性の身体は、それが労働力を生産するための機械として機能することを阻むいかなる障害からも「解放された」。火刑の恐怖は、共有地の周りに巡らされたどんな柵よりも手強い障壁を女性の身体の周りに築いたのだ。
 (略)
 だが魔女は、産婆や避妊する女性、隣人から薪やバターを盗んで何とか生活している物乞いの女性だけを指すのではなかった。身もちが悪く誰とでも寝る女性、つまり娼婦や姦婦、総じて、婚姻という縛りの外側で生殖を目的としない性行為をする女性も魔女であった。それゆえ、ウィッチクラフト(魔女魔術)の裁判では「悪評」が罪の証拠となった。また、魔女とは口答えをし、口論し、罵り、拷問を受けても声を上げないレベル(反抗的)な女性のことでもあった。ここで「レベル(反抗的)」とは、必ずしも女性がかかわる何か特殊な破壊行動を指すのではない。それはむしろ、封建権力に対する闘争の過程でとくに農民の間で発展した、女性の人格を表している。このとき女性は女性は、異端運動の最前線に立ち、女性の団体を組織し、男性の権威と教会に対して激しく対立したのである。魔女の描写は中世の道徳劇やファブリオ(滑稽譚)のなかで表現されてきた類の女性を思い起こさせる。いつも主導権を握ろうとし、男性のように攻撃的で活発で、男性の衣装を身にまとい、鞭を手にいばって夫の背にまたがるような女性である。(シルヴィア・フェデリーチ〔小田原琳・後藤あゆみ〕『キャリバンと魔女 資本主義に抗する女性の身体』以文社/2017/p.296-298)

アガタ・スウォヴァクとアレクサンドラ・ヴァリシェフスカとは魔女というレベル(反抗的)な女性たちを描き出す。仮に描かれる女性を男性に入れ替えてみて、絵画から受ける衝撃が薄れるならば、そこには女性に対する偏見が潜んでいることになる。