可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 間瀨結梨奈個展『のぞくあしもと』

展覧会『間瀨結梨奈『「のぞくあしもと」』を鑑賞しての備忘録
Bambinart Galleryにて、2024年1月17日~~2月3日。

主に馬や鳥をモティーフとしたノスタルジックな雰囲気を持つ絵画16点で構成される、間瀨結梨奈の個展。

《untitled》(410mm×318mm)は、厩舎で柵越しに少女に対して頭を差し出す馬を、主に黄を帯びた茶と水色がかった緑色とで描いた作品。セピアのような色褪せた画面にはノスタルジックな雰囲気が濃厚である。
夕空に3頭の馬の姿が浮かび上がる《暦》(970mm×1303mm)や高所から牧場を俯瞰した《きいろいとり》(318mm×410mm)などは山口薫を、ベージュの画面に黄褐色で左向きの馬をぼんやりと表わし、山並と思しき淡い緑が馬の周囲に添えられた《ゆめみ》(380mm×455mm)は坂本繁二郎を、想起させる。また、左に向かって進む馬と顔だけを左に向けて正面に向かって立つ女性とを重ねて黒い画面に表わした《うまとひと》(455mm×530mm)は、古代エジプト絵画を彷彿とさせよう。さらに《暦》や、馬と人、鳥とをシルエットで表わした《午後のこもり唄で》(727mm×910mm)を始め複数の作品にアーチのような形が見える。例えばジョルジュ・ルオー(Georges Rouault)の作品に表わされる壁龕(?)のように、それは聖性さえも呼び起こす。
再び、《untitled》に目を遣ると、馬が差し出す頭は、少女に向けられた恩寵のように感じられる。

《untitled》や《午後のこもり唄で》など複数の画面に表わされる柵は、境界を仕切るとともにそれを跨ぎ越す、越境を象徴する。作家は、「描く手と眺める眼との行き来には距離と時間が生まれる」が、「まるで星座の間を飛行機が横切っているのを眺めるように」画面に絵具を定着させる。絵画は「窓ではな」く、「深さをもったもの」である。すなわち、作家にとって画面とは「天球」的性格が強く意識されているのであろう。距離の異なる星々が天球上に位置しているように思えるように、個々のモティーフは同一平面上に見えるが、それは見かけの位置に過ぎない。

《きいろいとり》には牧場が俯瞰され、厩舎や柵、農地や並木などのモティーフが単純な線による記号のように配されている。画面の右側に縦方向に画面中央に横方向に幅の広い黄色が重ね合わされているが、タイトルを知らなければこれが「きいろいとり」の姿であることに気付かないのではないか。景観は上空からの「きいろいとり」の眼差しなのであった。だが、その鳥をも捉える眼差しが無ければ、鳥の姿を捉えることはできない。それは眼差しの真の主体であり、それは言うなれば霊性、あるいは神と言えるものである。

 人は原初的な母子関係において、母の眼から見た自分を発見し、それを受け入れる。言語は、母が子の身になって唱えた言葉を反復することによって個体的に発生するが、それは他者であるもの――つまり母から見た子――を自分として引き受けるということである。言葉を反復することには、他者になることなのだ。他者にならなければ自己にはなれない。そしてこの入れ替えにあたって人は、他者と自分とを同時に俯瞰する眼を習得する、身につけてしまう。
 こうして人は、つねに、自己を俯瞰する眼とともにあるということになる。というより、自己とは、自己の身体などではない。この、自己を俯瞰する眼のことなのだ。そしてこの自己を俯瞰する眼は、自己に憑くこともできおるが、他者に憑くこともできるのである。人間だけではない、自然物にも、場合によっては観念にも憑くことができる。
 観念に憑くことができる。そして、憑くことができるということは、実在していると感じることができるということなのだ。
 自己を俯瞰する眼にとって、自己の身体がまるで他者のように感じられることはいうまでもない。自己をはっきりと意識したとき、人は、自分の身体を与えられたものと感じる。なぜ自分は背が低いのだろうかとか、もっと美人だったらよかったのにとか、考えてしまう。自分とはこの距離のことなのだ。自分とは自分から懸け離れていることなのだというこの矛盾が、言語として表現されなければならなくなったときに、魂が、霊が、神が発生したと考えることができる。これこそ超越の起源というべきだろう。
 作図能力がもたらした結び目が、魂であり霊であり神なのである。(三浦雅士『孤独の発明 あるいは言語の政治学講談社/2018/p.423-424)

三度、《untitled》に目を向けよう。本来遙か隔たった時空にある存在――馬と人と――が、絵画の世界ではその隔たり――柵――を跨ぎ越して邂逅する。絵画とはそのような邂逅を可能にする奇蹟であり、《untitled》はその奇蹟をもたらす秘蹟そのものなのであった。