可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 荻野夕奈個展『Silent Tales』

展覧会『荻野夕奈「Silent Tales」』を鑑賞しての備忘録
ミヅマアートギャラリーにて、2023年5月31日~6月24日。

人物や花をモティーフとした8点の絵画で構成される、荻野夕奈の個展。

出展されている作品の題名は、全て日付による。画面の内容を説明することを拒む。展覧会に冠された"Silent Tales"からすれば、絵画を言葉の無い物語、すなわち観念に縛られない開かれた物語として提示するためであろう。

《p-200523_1》(800mm×800mm)は白い花を画面一杯にほぼモノクローム(一部に茶色が差される)で表わした作品で、右側に同じシリーズの作品が2つ並ぶ。《p-200523_1》は3作品の中でも花の中央の闇が最も深い。そこに向かって渦巻く花弁、その周囲にねっとりと引き伸ばされた絵具の塗り付け、周辺に浮き立つ白い固まり、効果線のような幾何学的な黒い描線などが、花の内部に拡がる宇宙に向かって回転する。《p-210523_1》(800mm×800mm)では中央の穴が黒い正円になるなど、抽象化が一段と進むとともに、黒い塗りの部分が画面下にも拡がるなど、花の求心力が失われ、むしろ遠心力によって、その姿が解体されていくようだ。右端の《p-220523_1》(800mm×800mm)が一番、花の共通イメージに近い形である。

《p-090223_1》(1900mm×4500mm)には、寝椅子に腰掛けるように宙に浮いた白いイヴニングドレス(?)の女性と、後方に仰向けに転倒する彼女を支えようと男性が駆け付ける場面が表わされている。女性のドレスのスカート、裸体の男性の背中(あるいは臀部)から大腿部が、画面中央からそれぞれ左と右と拡がる円弧となり、女性の頭部の右方向へ90度のズレと相俟って、画面の中央付近を中心とする回転が強く印象付けられる。画面左端で上から下へと左に膨らみながら振り下ろされる筆の線は回転運動を増幅させる効果線として機能する。女性は転倒するのではなく、起き上がろうとするのかもしれない。

《p-250523_1》(1900mm×1300mm)の画面を前にすると、下に赤茶、上に青の背景に、様々な色彩が、激しいストローク、滲み、滴り、飛沫、マスキング処理などで乱舞するのに戸惑う。リアルに描かれるのは画面下の裸足の足のみである。5つ6つと、爪先立ち、中にはシルエットのようにも描かれた足。途中で断ち切られた楕円の重なり、あるいは足元に入れられた円弧などによって、ダンスのステップのような動きを連想させる。それが認識されると、画面上部に青い顔が潜んでいて、彼の手前の後頭部、あるいは奥の頭部の影などが見えて来る。

 夏目漱石はその『文学論』の土台となる理論を「F+f」の図式で提示した
 「F」は焦点的印象もしくは観念、「f」はこれに附着する情緒として、漱石は冒頭で説明している。英語にすれば、「F」はfocus、「f」はfeelingのそれぞれの頭文字である。なるほど英語で考えれば「f」と「F」の関係の理解は容易である。
 feelingは、われわれが感じるところの感覚的入力情報のすべてである。その1つは外界が感覚器官に与える情報すなわち感覚与件である。2つ目は(それにともなって発生することもあるが)精神内部に自ずから生じ、甘受される気分、情緒、印象である。外部からもたらされるか、精神内部から生じるかの違いはあっても、いずれによせ、これらは刻々、甘受されている=感じている(feelされる)ことでは同じである。
 一方の「F」は、焦点的印象もしくは観念であると漱石が説明した通り、この刻々とバラバラに甘受される無数の情報「f」、その組織されざる感覚情報、印象の集合を統合し、焦点を与えるものである。焦点を与えられることによって、それらの情報はひとつの像として統合される。観念とはこうして、散漫で分散的な感覚の流れをなにものかの表象として焦点を絞る=統合する作用を持つ。こう考えるなら、漱石の「F+f」の図式は極めて整合的に理解できる。すなわち「F」は「f」の群れに焦点を与える、つまり統合する働きを意味する。が、このような理解に基づけば、むしろ漱石の示した図式は「f→F」あるいは「F(1, 2, 3............n)→F」という表記にしたほうが適切なように思える。あるいは「F」つまり観念が先行し、それが感覚の群れに焦点を与える、すなわち「F」が感覚に篩(フィルター)をかけ情報を絞り込む作用を持つと考えるならば、矢印の方向の違いは観念が先行するのか、あるいは焦点は無数の感覚群れから事後的に発生してくるのか、という問題になろう。これはいうまでもなく、漱石も学んだはずのデイヴィッド・ヒューム(1711-76)などのイギリス経験論の問題設定に沿っている。ヒュームにおいて、漱石のいった「f」は印象(impression)、「F」は観念(idea)にあたり、その定義も論理設定も漱石の与えた定義とほぼ重なっているからである。
 にもかかわらず、漱石が「f→F」ではなく、「F」と「f」を並列して、「F+f」としなければならなかったのはなぜか。それはこの論が言語と用いた表現の分析であり、またその理論すなわち文学論であったからに他ならない、と考えられる。いうまでもなく文学は言語、すなわちあらかじめ共有された言葉=単語を用いる(絵画においては図像にあたる)。そこで用いられる個々の言葉は、一定に絞り込まれた意味対象(領域)を示すものとして受け取られる。その単語が何かを有意しているという前提が、その単語が言語として機能していることである。つまり言葉は記号として、何かをすでに指示している。すなわち焦点(つまり「F」)を備えた意味作用を持つ。
 言語を用いる文学においても、当然そこで用いられる個々の単語はそもそも「F」の機能をあらかじめ保持していることを前提とする。たしかに科学的言説は意味=焦点の絞られた「F」のみで明確に文を構成しようとするだろう。だが、文学はその条件として、「F」に付着する情緒「f」が必須である。文学は単語の確定的な意味に対する主体の感情を付加するというわけだ。
 しかし、個々の単語はすべからず〔引用者註:すべから「く」、か〕「F」すなわち観念を示しているのであれば、「f」すなわち感情の表出はいかに可能となるのか。「f」は個々の単語ではなく、この単語と単語の連結の様態、基本は同じ意味内容を伝えている文の異なる言い回し、様相(モダリティ)、文体として示される。いわば言い回しの違いによって、文学は、物語られている同じ対象、事実=「F」に対する、それを語る人の位置、距離、視点の違い、それにともなう驚き、感嘆、躊躇、動揺、悲しみ、疑い、怒りなどの差異までをも提示するということになろう。(岡崎乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』亜紀書房/2018/p.190-192)

文学における「確定的な意味」を持つ――観念(F)を含み持つ――言葉=単語に相当するのものは、絵画においては具体的な図像である。作家は、「目に直接入ってくる視覚情報から離れ、人が感覚を超えて把握し認識している対象のリアルかつ確実な姿をこそを、絵画として論理的に構築」(岡崎乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』亜紀書房/2018/p.11参照)しようとしているのではないか。

 つまり漱石はこの小説〔引用者註:夏目漱石草枕』〕が書かれた1906年の時点で、やがて抽象画と呼ばれるものが出現することを、すでにはっきりと予告していたともいえる〔引用者註:『草枕』に「画でないと罵られても」「いやしくも色の配合がこの心持ちの一部を代表して、線の曲直がこの気合の幾分を表現して、全体の配置がこの風韻のどれほどかを伝えるならば、形にあらわれたものは、」「何でもないものであれ、厭わない」。「こんな抽象的な興趣を画にしよう」との件があることが直前で紹介される〕。
 同時に逆のアプローチも示される。画工は彼が逗留する旅館の出戻りの女主人、那美という女性の顔を描こうと試みるが、その言動の捉えどころのなさに振り回されるばかりで一向に絵にならない。

この女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。口は一文字を結んで静である。眼は五分のすきさえ見出すべく動いている。顔は下膨の瓜実形で、豊かに落ちつきを見せているに引き易えて、額は狭苦しくも、こせ付いて、いわゆる富士額の俗臭を帯びている。のみならず眉は両方から逼って、中間に数滴の薄荷を点じたるごとく、ぴくぴく焦慮ている。鼻ばかりは軽薄に鋭どくもない、遅鈍に丸くもない。画にしたら美しかろう。かように別れ別れの道具が皆一癖あって、乱調にどやどやと余の双眼に飛び込んだのだから迷うのも無理はない。(同前〔引用者註:夏目漱石草枕』[1906]/岩波文庫[1990])

 要するに彼女の顔を特徴付ける各々の要素は、それぞれが別の機能を持った存在として、勝手気まま(かように別れ別れ)に異なる働きを主張するばかりで1つのまとまった顔として像を結ばない。「乱調にどやどや」という記述は、あたかもキュビスムの絵を見たときに誰もが描く印象を述べたようでもある(ピカソが《アビニョンの娘たち』を描いたのは、この翌年1907年である)。画工はこう考える。那美さんの顔が描けないのは、顔に表れているこの乱調を、手持ちの概念(理解)で代表的に表現できないからで、描くためにはこれらを束ねることのできる別種の情が発明されないとならない。やがて、その情が那美さんの顔に表れるのを画工は発見し(彼はそれを「憐れ」と呼ぶ)、「それが、画になる」という核心を得て、小説は終る。(岡崎乾二郎『近代芸術の解析 抽象の力』亜紀書房/2018/p.16-17)

"Silent Tales"の作品にも見られる「乱調にどやどや」の表現は、「手持ちの概念(理解)で代表的に表現できない」、紋切り型の観念では像を結ぶことのない、模糊とした想念にふさわしい表現を、具体的なモティーフを糸口としながら探ろうとした結果生まれたものと考えられる。