可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 谷原菜摘子個展『ごらん、世界は美しい』

展覧会『谷原菜摘子展「ごらん、世界は美しい」』を鑑賞しての備忘録
MEMにて、2022年12月3日~25日。

闇の深さが印象的な黒いヴェルヴェットに描いた絵画8点やそのエスキース7点、大画面のパステル画などで構成される、谷原菜摘子の個展。

表題作《ごらん、世界は美しい》(1620mm×1620mm)は、黒いヴェルヴェットに、鉄格子の檻の中央に坐って、幼児らしき生き物を抱きかかえるように手を翳す女性などを描いた作品。「幼児」は、大きな目と鼻と口をもつ面のような丸く平板な顔(頭部)を持つ。太い右腕に対して、右腕は細く伸びて、その先には手が無い。左脚は細長い足を持ち、その他に4本の触腕のようなものが伸びている。近くの餌皿に盛られた米粒らしきものと同じものが、「幼児」の身体部位を今まさに形成しつつある。その形成を行っているのが、「幼児」の背後にいる女性だ。彼女の手の指は、異様に伸びており、機械の組み立てをする産業ロボットのように「幼児」を制作しその成長を促している。角に設置された水道とシンクの脇にしゃがみ込み、「幼児」と女の姿を眺める男がいる。「幼児」は、男と女の間に生まれた子であるのかもしれない。だが「幼児」の面のような顔は、鉄格子を摑んで中を覗いている男の顔と瓜二つである。天井には、形成途上の人体の部位――顔、胴、腕、脚など――がぶら下がっていることから、この檻は人間製造プラントのユニットなのだろう。檻の外の人物が自分のクローンを製造しているのではなかろうか。天井から垂たされたチューブを咥える鶏は――水場、餌皿、ランプシェードの付いた照明と相俟って――、ここが養鶏場とパラレルな環境であること、すなわち動物に対して行使されるテクノロジーは、人間へと転用されることを示唆するのである。

《無常》(2606mm×1620mm)は、黒いヴェルヴェットの画面に、プールの水面で踊る数名の高校生(?)の姿を描いた作品。例えば、中央のセーラー服を来た女子生徒は水しぶきをあげて溶けていき(あるいは水しぶきから生成され)、学ランの男子生徒へと変貌する(あるいは、その逆に男子生徒から女子生徒へ変化している)。他の生徒たちも水しぶきに溶け(水しぶきから生成され)、別の人物に変貌する。人物によって生物の生成変化を象徴的に示すが、それがプールという人工環境下であることが、プールの外(画面奥)に広がる暗い海との対照で強調される。人間の創造や改変という点で、《ごらん、世界は美しい》に通じる。

《シャワーを浴びて金になる》(Φ410mm)は、ヴェルヴェットを張った円形の画面に、浴室のバスタブでシャワーを浴びる女性を描いた作品。バスタブの縁に左足を載せて金色の水を浴びた女性は、その部分が金色に変化する。タイル張りの浴室は、女性の背後でタイルを歪ませて穴が開いて、闇が広がっている。バスタブの周囲には梟と極楽鳥花が描かれている。《ごらん、世界は美しい》のイメージと相俟って、河原温の「浴室」シリーズを想起させる。金が象徴する不滅をテーマであろうが、ブラックホールの闇は、光(金)を含め全ては歪みが象徴する混沌へと呑み込まれる。

パンドラの匣を開けて眠りましょう》(1234mm×1580mm×83mm)は、黒いヴェルヴェットにチューリップの咲き誇る庭園を描いた三幅対。中央の画面には、開けた手箱を左手に持った女性(パンドラ?)が噴水に立っている。その周囲にはひっくり返っている子供たちの上げている脚は、吹き上がる水の代わりのようだ。画面左側には、チューリップの花壇を背に右を指差して立つ女性の姿がある。画面右側には手前に向かって走って来る子供たちの姿が描かれる。左画面の女性によって、右画面の子供たちが中央画面のパンドラのもとに誘われているのであろうか。人類最初の女性であるパンドラを介して、ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)の三幅対《快楽の園(Tuin der lusten)》に登場するエヴァと結び付けることもできそうだ。

《ぼくの友達》(1800mm×1200mm)は、黒いヴェルヴェットに描かれた、トウモロコシ畑の中に立つ案山子のような女性像。本作品のエスキースから、彼女は「ネジ子」と名付けられているらしい。ネジ子は傍らにハニカムのトランクを置き、左脚を跳ねるように上げて片足で立っている。胸の前で麦藁帽子を抑えている。何より目を奪われるのはネジ子の顔の六角形の中空ネジの空洞で、ヴェルヴェットの黒が底無しの闇のイメージを生んでいる。画面の中央上方に位置するネジ子の顔と麦藁帽子の2つの円は、(位置はずれているものの)画面の楕円形の2つの焦点の存在を示唆する。だが一方の焦点が空無であるのは、惑星が太陽の周囲を楕円軌道を描いて公転していながら、太陽と対になる焦点が存在しないのに比せられる。案山子が象徴するイマジナリー・フレンドの存在によって「ぼく」は何とか軌道を周回することができるのかもしれない。