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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 湯浅万貴子個展『肯う地平』

展覧会『湯浅万貴子個展「肯う地平」』を鑑賞しての備忘録
MEDEL GALLERY SHUにて、2023年8月29日~9月10日。

箔を貼った画面に点描立体感を表わした女性の身体を配した「Gestalt」シリーズや、箔と絵具により図と地の関係を考察する「to ti ēn einai」シリーズなどで構成される、湯浅万貴子の絵画展。

《Gestalt/地平》(1620mm×1940mm)は、銀色の金属箔を貼った画面に、アクリル絵具とインクで女性の身体を描いたモノトーンの作品。画面左側に4体、画面右側に3体、それぞれが密集して、あるいは重なるように配されている。個々の身体は、頭部ないし首から上、さらには腕も表わされない。胸から脚(主に太腿あるいは脹ら脛まで)が描く線、あるいは量感に注目している。肌の陰影は、黒いインクによる点描の粗密を違えた区画――恰も農地を俯瞰するような――により表現される。画面の右端・下端・左端に幅と長さを異にする黒い矩形が、それらが連続して全体としては"J"(ほとんど"U"だが左側の方が僅かに低い)に近い形で配されている。この黒い矩形を女性の脚が跨ぎ、あるいは身体がその前面に現われている。地平線は、大地と天との境にほぼ水平に見える線であり、そのように見えるというだけで、実際には跨ぎ越すことはできない。黒い矩形が象徴する地平線を敢て跨がせることで、地平線を認識させる全体的な枠組みである「ゲシュタルト(Gestalt)」を描き出しているのだ。インクの点の粗密が農地のようであり、さらには女性の肌の陰影となって姿を表わすのも、ゲシュタルトへの気付きを促す。

 われわれはさまざまなものについて「~がある」「~である」という言葉を適用する。アリステレスも「あるということは、多くの意味で語られる」こと、その意味が完全に一義的ではないことを認めている。しかし、「橋」と「箸」のように名前の音のみが同じで意味が完全に別で或る(「同名異義的」)というのとは事情が異なる。アリストテレスは「健康的」とうことになぞらえて、巧妙に「ある」ということの統一性を説明する。「健康的」は、「健康の維持」「健康をもたらす」「健康の兆候」などいくつかの意味で語られるが、それらはすべて〈健康〉に関連して語られる。アリストテレスは、多様な「ある」の使用にも、これと同様に、1つの意味の核のようなものが見出せると考える。そのような核となる「ある」を示すもの、それがウーシアー(実在・実体)である。さらに、さまざまな仕方で語られる「健康的」なるものを覆う1つの知(医術)が〈健康〉に関して成立するように、「ある」という名辞の適用領域についても、それを包括する1つの知がこのウーシアーを核として成立すると主張する。
 こうしてアリストテレスは、次のように宣言する。――「古くから探究され、現在も、そして永遠に探究され、またつねに難問に突き当たるところの問い、すなわち「〈ある〉とは何か」とは、帰するところ「ウーシアー(実体)とは何か」という問いなのである」。(内山勝利責任編集『哲学の歴史 第1巻 哲学誕生【古代1】』中央公論新社/2001/p.605-606〔中畑正志執筆〕)

金属箔と絵具とで構成される絵画「to ti ēn einai」シリーズ5点(各409mm×318mm)は、アリストテレスがウーシアー(実体)を説明するのに用いる「~がある」をタイトルに冠している。女性の身体をモティーフとした「Gestalt」シリーズや「無傷のそれ」シリーズをでは、金属箔の背景に女性の身体が存在することが印象付けられる。「女性の身体がある」となる。それに対し、「to ti ēn einai」シリーズでは、金属箔と絵具による描線、すなわち図と地との関係を曖昧にすることで、「~がある」とは断定できない宙吊りの状況を生み出す(銀の絵具を用いた《to ti ēn einai v》においてとりわけ判然とする)。ウーシアー(実体)の捉えどころのなさを絵画的に表現する試みである。