展覧会『新宅和音個展「出奔する少女」』を鑑賞しての備忘録
新宿眼科画廊〔スペースM〕にて、2023年8月25日~9月6日。
少女をモティーフとした絵画で構成される、新宅和音の個展。
メインヴィジュアルに採用されている《ビニールハウス》は、天井に穴が開き植物に覆われた、朽ち果てたビニールハウスに佇む少女を描く。少女が身に付ける白いTシャツの胸に描かれた"FiN"は、彼女を守ってきた温室(ビニールハウス)が失われたことを示す。ビニールハウスに通じる閉鎖環境で食事を与えられる少女の顔を描いた《Feeding》がキリストに感謝する聖餐式を下敷きにしたものであるなら、《ビニールハウス》の天井から流れ落ち、少女の頭を塗らす油らしきものは聖油であろう。少女時代の終焉(fin)として行われる、一種の堅信の儀式を表現したものと解される。
《ピンク色の地平》は、海か湖か、対岸に島あるいは山が見える水辺と、薄雲の空と背景に、正面を真っ直ぐに見据えて立つ少女を描く。少女の肌はピンク色で、その肌からは切り裂いた金属片のようなギザギザの葉がそこら中から突き出して白いTシャツに切れ目を入れ、葉先からは血が滴っている。右の眉から突き出した葉は額を穿ち、血を流させる。少女の身体から伸びた葉=刃が自らを傷つける(初期作品である、額を飾る花とともに血を流す聖顔布的図像《愛子の春》に通じる主題である)。水辺を背景にしながら水平(horizon)ではなく地平(horizon)をタイトルに冠しているのは、それが少女の視野(horizon)を示しているからだろう。刺々しい言動は他者ではなく、実は自己に向けられている。青空が広がっていても、薄雲、すなわち巻層雲は間もなく崩れる天気を示唆する。少女が堪えきれない涙をこぼす予兆である(この点では、眼を赤くした体操着姿の少女が茂みの蔭で膝を抱えて坐る《裏山のダブル》と共通する)。《火吹き竜としての私》において、前方上方に視線を向けて内部に溜め込んだものを吐き出す少女の姿は、自傷する《ピンク色の地平》の少女と対照的である。
《身から出た錆》では、海岸でショーツだけを身につけた少女が背を反らして曇天の空を仰ぎ見る。彼女の腹部中央を縦に切り裂く刃が5本ほど突き出している。切開された下部は糸で縫合されている。暗雲や刀身による暗く禍々しいイメージに対し、少女の輝く裸身と、前方上方見据える大きく見開かれた眼とが甚だしい対照をなしている。自らの身体から突き出した刃によって傷つく点では《ピンク色の地平》と共通するが、背景の雨雲は彼女の内面ではなく、彼女が対峙する世界となっている。
《ピエタ仮》は、森の中の開けた場所で、青いビニールシートにくるまれた何かを抱える2人と、その傍に佇み、後ろ手でナイフを持つ少女の姿とを描いている。登場人物の3人に加え、青いビニールシートの上部にも光輪が表わされていることからすれば、マリアが子の死を嘆く「ピエタ」である以上、2人が抱えるのはキリストの遺体、あるいはそれに類したものになろう。だがタイトルには「仮」が付され、なおかつナイフを隠し持つ少女が不敵な表情を浮かべているのに注目しない訳にはいかない。また、背後に網膜のようなものが描かれているのは、マルセル・デュシャンの言う網膜的美術に対する警句であろう。鑑賞者に思考を促すのである。ならば、青いビニールシートに包まれるのは、その形状からして陰茎であろう。少女はビニールシートを切り裂いて、その露出を測る。処女懐胎の欺瞞を暴くことで、真のキリストの死を招こうとしているのである。無論、そこには少女的世界からの出奔も重ねられていよう。