展覧会 藤波洋平個展『背中にある虹』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2023年9月4日~16日。
人物、あるいは樹木をモティーフとした絵画12点で構成される、藤波洋平の個展。
表題作《背中にある虹》は、背中にある虹を描いた作品ではない。胸像ですらない。小さな画面(180mm×140mm)に描かれているのは、人物の顔である。髪・眉・目は緑で描かれ、髪の毛には藍も混じる。背景は上から下へ向かってオレンジから黄、さらに黄緑へと変化していく。仮に背中に虹があっても、直接見ることは叶わない。できることは、空に架かる虹の発する光を受ける背中をただ思い浮かべることだ。作家は、画面に現われている橙・黄・緑のグラデーション、あるいは差された藍によって、虹のスペクトルを鑑賞者に想像させる。それは、人物を描き出している画面の背後、絵の具の層にこそスペクトルに相当するものがあることを暗示する。表面のイメージは、そこに到る積み重ねこそが生んでいると訴える。
《泣くように笑うように歌う》(652mm×530mm)は、ピンク色の画面に、オレンジのような真ん丸に口を開けて歌う人物の胸像が描かれる。心持ち上を向いた顔には、左に水色の線で、右にオレンジの線で、それぞれ泣きと笑いの目を表現されている。《背中にある虹》同様、表現(=「歌う」)の背後にある複数の層(「泣く」・「笑う」)を表現した作品とも言えよう。頭頂部からは太陽フレアのように黄色い光が上がっている。ヒョウ柄のトップスの黒い斑は石炭のようで、口から送り込まれる酸素によって激しく燃えさかっているためだろう。歌う女性が燃え上がる石炭? 牽強附会も過ぎようか。だが、灰青の闇に立つ銀杏を描く《いちょうの時間》(1620mm×1303mm)では、黄金の樹冠だけでなく、そこから青白い炎が上がっているのだ。作者が人や樹木、すなわち生命に熱・炎・光を見出しているのは疑いない(実際、生命とは光、時間でなくて何であろう)。
メインヴィジュアルに採用されている《冬の朝》(1620mm×1303mm)には、レモン色から山吹色の黄色のグラデーションを背景に、裸足の女性が立つ姿が描かれている。女性の身に付けるオレンジのセーターこそ冬らしいが、裸足は季節にそぐわない。だが、裸足でなければならなかった。それは山吹色の光の熱に肌(足裏)で直接触れるためだ。紺を基調にいくつかの色が縞状に配されたパンツは、熱の移動(上昇)を表現している。マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)の《大ガラス》よろしく、熱力学を読み込むべきなのだ。疑わしいなら、《雨を見る人》(1167mm×910mm)を見るが良い。うっすらと雨粒の表現が見えるライトグレーを背景に、落ち葉の堆積した地面に立つ裸足の男を描いている。何より目を引くのは、男の右手が長く引き伸ばされ、地面に掌を触れていることであろう。彼は雨量ないし湿度を計る存在と化している。シャツやパンツが色の縞で表現されているように、男は手足から水分を吸収しているのだ。見よ、男の顔には、恰もグラスが汗をかくように水滴が付着しているではないか。「見る」とは、「触れる」でなければならない。すなわち、表面(イメージ)に「触れる」ことで、その下にある層まで「見る」ことを作家は求めているのである。