可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 すずきしほ個展(2024)

展覧会『第58回新人選抜レスポワール すずきしほ個展』
銀座スルガ台画廊にて、2024年4月29日~5月4日。

風景にも食べ物にも見える柔らかみのある形と随所に配される輝きが特徴的な絵画で構成される、すずきしほの個展。

《ぽたぽた畑》(455mm×530mm)の淡い水色と淡いピンクとで上下を塗り分けた背景に、緑の王冠ような形が左寄りに描かれる。「王冠」は右方向に傾ぐことで、脇から姿を覗かせたかのよう。緑はやや深めの色でガサガサとした表情をしながら、輪郭は滲んで潤いも感じられる。「王冠」の4つの突起のそれぞれには輝きを表わす星の形(菱形の各辺が円弧になった形)が配される。星の輝きは赤紫のものが3つと、右端のクリームとで塗り分けられている。風に吹かれた葉の先に花が咲くようでも、葉先に置かれた露が光に反射しているようでもある。《もこもこ畑》(410mm×318mm)では上側がうっすらとした黄とピンク、オレンジの水平線を境に下側は水色で塗られた背景に、左側に3つの凸を持つ深緑の形が描かれている。《ぽたぽた畑》の「王冠」同様がさがさした表情を持ちつつ輪郭は滲むが、傾いではおらず真っ直ぐに立つ。但し、3つの凸のうち左端は半分しか姿を見せていないため、現れ出る(あるいは隠れている)印象を生む。凸の先には黄の「星」が輝く。《もちもちパーティー》(455mm×380mm)は、クリーム色の背景の下部を灰青で塗り潰して台を作り、そこに大きな白い楕円とその上に小さな虹色のレモン形が鏡餅のように積み重ねられ、橙の代わりに2つの黄色い星が載せられている
白い「餅」は鏡餅のようにかさついてどっしりと坐っている。虹色の「レモン」は「餅」の上部中央から左にズレながら水平を保っている。他方、黄色い星は右上に向かって斜めに連なっている。「星」だけでなく、位置の微妙なズレが画面に動き・変化を呼び込む点で、上記3作品は共通する。
《きらめく富士Ⅲ》(220mm×273mm)は灰色の背景に水色で斜辺が彎曲した台形を大きく描き、台形の上辺には3つ半円状の形がグリッターで配することで「富士山」を描く。「富士山」の肌には短い斜線を削って表情を作っている。「富士山」の背後にはクリーム色の円の巨大な「満月」が昇り富士山を包み込む。《ぽたぽた畑》・《もこもこ畑》・《もちもちパーティー》と表現方法は異なるものの、もこもことした形と輝きの表現とは共通する。そして《きらめく富士Ⅲ》では敢て配置の微妙なズレを排することで富士の安定感を演出している。
《本日のデザート》(227mm×227mm)では淡いピンクと赤紫を背景に大福のような白い塊が描かれ、全面に6本の金のグリッターの斜線が配されている。降り注ぐ光は後光ないし光輪に等しく、「大福」に富士同様の尊さを付与する。
《4月の親子》(220mm×273mm)も《本日のデザート》と同様、淡いピンクと赤紫を背景とした作品である。ほとんど黒に見える緑の小さな塊の背後に暗いモスグリーン(黄茶緑)のやや尖った大きな塊が配される。尖った大きい塊には短い線を削り出して模様としている。ピンクの壁の前の赤紫の台に置かれた和菓子のような何かを描いた静物画である。「和菓子のような何か」としたのは、2つの塊は何を模しているのか分からないからだ。否、むしろ何かを写そうとはしていないのだろう。両者に共通する緑により類縁を、その大小により「親子」のような繋がりを見ている。並び立つ岩に夫婦を捉えたり、あるいは一方の山を男体山、他方を女体山とするような発想に通じる。作家は岩や山のように存在そのものの尊さを捉えようとしている。一見ふわふわとしたユルい世界が熊谷守一に通じるように見えるのはそのためであろう。
《月のうつわ Ⅰ》においても淡いピンク色と赤紫とに画面が塗り分けられているが、大画面(1303mm×1620mm)においては、マーク・ロスコ(Mark Rothko)を彷彿とさせる。下側3分の1程度の高さに位置する2色の境界線に接するように深緑の薄く扁平な三日月状の形が配され、画面上部には白っぽい円状の光がピンクを背に映える。傍らには黄色い輝きが表現されている。白い円は太陽ではあるまい。仮に三日月なら(仮に下弦後でも)弧の外側に太陽が見えるはずであるが、白い円は「三日月」の弧の内側に位置するからである。「三日月」が水平線に対してやや片側を浮かせるように描かれていることと、作品が「月のうつわ」と題されていることから推せば、「三日月」は葦舟ではなかろうか。葦舟に乗るのは達磨菩薩である。そしてダルマとは真理であり、その象徴として輝く円が配されているのだろう。白い円から三日月に向かって溢れる光は、ダルマ=真理を受け取る様の表現なのだ。画面左端に覗く黄土色の帯はカーテン(ヴェール)であろう。真理の受け取りは、閉ざされつつ、開かれれるのを待っている。