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芸術鑑賞の備忘録

展覧会 馬延紅個展『新しい人生』

展覧会『馬延紅個展「新しい人生」』を鑑賞しての備忘録

画面を分割して女性の顔や身体を組み合わせた作品を始め、主に女性の身体をモティーフとした絵画作品で構成される、馬延紅[马延红/Ma Yanhong]の個展。

花椿》(1300mm×1000mm)には勿忘草色を背景に、薄橙や桃色の肌の女性6名が明るい黄緑に椿の花を散らしたデザインの水着を着て寝そべる。画面の上から下に頭を右に置く女性と左に置く女性が交互に並び、肌の色、髪の色、髪型などがそれぞれ異なるが、皆顔から食み出すほど目が極端に大きい。類例と言える、茜色を背景に百合をあしらった面積の狭い水着を着用し、胸や尻などを強調したポーズを取る4人の女性が描かれる《百合》(814mm×594mm)と比べると、漫画的にデフォルメされた目の大きさが分かる。
《五色八重》(1200mm×800mm)には4人の水着姿やトップレスの女性が描かれるが、取り取りの椿(五色八重散椿)は水着のデザインに押し込められるのではなく、女性の顔よりも遙かに大きく、メタリックの緑の背景に配される。2人の女性の姿が追加されるものの《五色八重》とほぼ同様の構図の《五色八重 2》(1000mm×725mm)でも、またビキニの女性が仰向けに横たわる姿を描いた《ピンク山茶》(594mm×841mm)でも、実際のサイズよりも大きい椿の花が画面に散らされる。深紫を背景に6輪の椿の花だけを描いた《椿六朵》(300mm×200mm)も展示されており、作家の椿(山茶花)に対する並々ならぬ関心が窺える。園芸品種として古くから品種改良が行われてきた椿と、水着やトップレスの女性たちはともに鑑賞の対象として等しいということなのだろうか。あるいは中国では椿を「清心寡欲」の象徴と捉える見方もあるようなので、鑑賞者に煩悩を断つよう促すのかもしれない。
因みに水色を背景に花弁の色が塗り分けられた花を表わした「水中の花」シリーズ6点も椿を描いている可能性がある。花の周囲には気泡を表わす円が散らされる。水の中に押し込められ窒息してしまうかもしれない。《マスカット》(455mm×380mm)はオレンジ色の画面に4人の女性の姿が描かれる。特徴的なのは連なったマスカットの実が水泡のように女性たちの周囲を取り巻いていることだ。右上で寝そべる女性の衣装に尾鰭のようにヴォリュームのある襞飾りがあるため、女性たちには人魚のイメージが重ねられているようだ。花や女性が水の中に閉じ込められるのも、両者が鑑賞の対象として存在することを表わしている可能性がある。

「無題」シリーズは、別々の女性の顔や身体を画面の中で組み合わせた作品である。《無題 1》(240mm×190mm)では、画面左側に右手を顎に添えた紫の髪の女性を、画面右側には左手を左頬に宛がった黄色の髪の女性を描いている。鼻の位置は画面の左右でほぼ一致しているが、口や顎の位置はずれる。右側の女性の頭部や肩より下の位置は大胆に省略されているのも2画面を無理矢理接合している感が強く打ち出されている。《無題 2》(227mm×158mm)や《無題 3》(227mm×158mm)でも異なる2つの顔が組み合わされるが、左右で右の画面の方が大きく、また分割線が斜めに入っており、和服や工芸の片身替を連想させる。タイトルは異なるが《眺望》(240mm×330mm)も画面の半分ずつにそれぞれ女性の顔が描かれる。《無題 6》(910mm×730mm)では、青い背景に、水着の女性の身体が切り抜いた写真をコラージュしたかのように組み合わされる。薄橙やピンクの肌の女性の身体が5人と、顔の一部が見える女性3人とで構成されている。画面の左隅にオウムガイの貝殻が描き込まれている。《無題 7》(410mm×315mm)には寝そべる女性の上半身と、別の女性の下半身、色取り取りの紙吹雪を貼り付けたような花(紫陽花?)、フリージア幾何学的な模様を配した部分などが組み合わされている。
《読む》(455mm×380mm)では分割した画面それぞれに描かれた2人の女性が1冊の本をシェアしているが、2つの顔や身体を組み合わせた「無題」シリーズは果たしてシェアを主題にしているのだろうか。あるいは化粧の前後で差異を比較するように、(別々の女性ではなく)同一人物のイメージの改変(画像の加工)をこそ表現しているのだろうか。《無題 6》の片隅に描かれた「生きている化石」オウムガイは、凝り固まった思考を揶揄するようである。

《晨昏》(1300mm×750mm)はオレンジの空に満月と爆撃機が浮かび、宝石の原石のようなものが舞う中、赤い水着の女性の上半身とエメラルドの水着の女性の下半身の後ろ姿がが組み合わせて配される。振り返って横顔を見せる赤い水着の女性の肩には烏が留まる。女性の画面の右下には朝顔と茸が切り抜いてきたかのように描き込まれているには、儚さを示唆するためだろうか。タイトルは夜明けと夕暮れとを組み合わせた言葉であり、対極的なものが同時存在することを訴える。烏は吉凶のいずれの象徴でもあり、宝石は爆弾へと変じるのだ。

作家は、椿と女性の作品などで、やはり清心寡欲と煩悩との同時存在を追究しているのだろう。「無題」シリーズで描かれるのはある種の「共生」だが、それは生物的な共生関係とは異なる。対立するもの或いは異なるものが同時に存在してしまう――一例を挙げれば、違う国の人同士が隣同士に住む――ということである。それゆえ相互に相手を受け容れる寛容さが求められると訴えるのだ。不寛容さを戯画的に描き出したテレビドラマ『不適切にもほどがある!』(2024)と通底するメッセージを発していると言えよう。