展覧会『杉浦晶展』を鑑賞しての備忘録
ギャラリーなつかにて、2024年3月25日~4月6日。
現実世界から少しだけ浮き上がったような演劇空間を絵画の中に起ち上げる、杉浦晶の個展。雲のような流体と女性とを描く「わたしのこころをなにかにするソレ」、夫婦と2人の娘が家を舞台に繰り広げるドラマ「オウチノハナシ」、集合住宅を舞台にした「隣家の窓」、赤いキューブを被ったスーツ姿の男が円相を辿る「円相に関する一考察」、箱の中に閉じ込められた人々を描く「living in a box」の5つのシリーズで構成。
《オウチノハナシ》(1303mm×1620mm)には低木の生け垣に囲まれた煉瓦造りの家のドアを煉瓦で埋め、今まさに最後の1つを嵌め込もうとしているスーツ姿の男が描かれている。左右の窓は山吹色のカーテンがかかるが、右側は3分の1ほど開いて、女性が両手を目の前に翳して双眼鏡を覗くようにして外を見ている。家の左右の丸く刈り込んだ庭木の蔭には、赤いワンピースの少女2人がそれぞれ裏へ廻るよう駆け、あるいは歩いて行く。《オウチノハナシ 2》(727mm×727mm)には山吹色の壁に囲われフローリングの床の居間のダイニングテーブルに林檎がピラミッド状に積まれ、スーツ姿の男と白いワーンピースの女性が向かい合って坐る。近くの薄紫のカーペットの上の低い台にはその男女を模したような人形が飾られている。隅の棚の上に置かれた半分に切られた林檎を取ろうとする少女と、部屋から出ようと駆け出す少女の姿がある。《オウチノハナシ 3》(727mm×727mm)ではスーツ姿の男が階段の昇っていく。階段には林檎がいくつも転がり落ち、白いワンピースの女性が1つを拾おうとしている。その姿を少女が手摺の蔭から覗き、もう1人の少女は部屋から出て行こうとしている。
《オウチノハナシ》の家の周囲はアスファルトと青空を表わすような灰色と水色のグラデーションで、平面的な煉瓦の家は書割のようだ。スーツ姿の男がドアが煉瓦で埋めつくしてしまう点で現実から遊離する。《オウチノハナシ 2》の窓のない居間とテーブルに積まれた林檎もまたそうである。《オウチノハナシ 3》では階段から転がり落ちる無数の林檎とともに、やや複雑な階段や壁の構造が、駆け出す少女の姿と相俟って、ジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)の《通りの神秘と憂鬱(Mistero e melanconia di una strada)》に通じる非現実感を生んでいる。結果として「オウチノハナシ」3作品は、父親、母親、2人の娘による演劇として立ち現われる。娘や母親が手に取ろうとする林檎は愛の象徴かもしれない。
《隣家の窓 5》(455mm×530mm)はクリーム色の壁のアパルトマンの3層、6つの窓と3つのドア、外階段とを仰視して捉えた作品。描かれているうち最上層の2つの窓にはそれぞれ男と女とが向き合うように、中層の窓には男女が互いに背を向けて、最下層の窓には女だけがいて、男はドアの外に立つ。男女の関係が抉れて疎遠になる様を描くようだ。《隣家の窓 3》(410mm×318mm)ではアパルトマンの壁に縦に6つほど窓が描かれる。上から4つ目のガラス戸の開いた窓では少女が口に糸電話の紙コップを当て何か話している。赤い糸は窓から急角度で上に伸びている。一番下の窓は閉ざされているが、窓ガラス越しに少年が糸電話の紙コップに耳を当てている。果たして少女は少年にメッセージを伝えられているのだろうか。《隣家の窓 6》(652mm×530mm)にはベランダ側からの4層の部屋が描かれている。最下層の部屋の窓はカーテンで閉ざされている。左端の窓は開かれ、カーテンの蔭から女性が外を覗いている。ベランダの手摺には猫が寝そべり、ベランダの仕切り板には烏が留まる。その上の室内は色取り取りの風船でいっぱいで、子供が窓を開けて風船を外へと飛ばしている。その隣の部屋ではテレビを見ている男がチャンネルを変えようとリモコンを画面に向ける。風船は上の階に住む子供が手に入れたようだが、母親に取り上げられてしまった。その隣の部屋では女性が双眼鏡を手に外の様子を窺っている。映画『裏窓(Rear Window)』(1954)のように何か事件を呼び込むようだ。
「隣家の窓」シリーズは同じ集合住宅を共有しながら、互いに何の繋がりもないということが、僅かな繋がりによってかえって浮かび上がる。閉ざされた窓あるいは締め切られたカーテンが象徴するように、何も見えないことこそ常態なのだ。
赤いキューブを被ったスーツ姿の男が禅画のような墨で描かれた円の上を巡る「円相に関する一考察」や、色取り取りの箱(部屋ではない!)に閉じ込められた人々を真上から描き出す「living in a box」シリーズは、円や箱といった抽象的な舞台装置で繰り広げられる1幕ものの舞台のようだ。赤い箱を被る男からは安部公房の『箱男』を、狭い箱の中に閉じ込められた後者ではフランツ・カフカ(Franz Kafka)の『変身(Die Verwandlung)』を連想させられるため、不条理演劇が展開しそうである。