可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 しまうちみか個展『辺境の宇宙』

展覧会『しまうちみか「辺境の宇宙」』を鑑賞しての備忘録
MARUEIDO JAPANにて、2024年3月15日~4月6日。

来訪神を始めとする伝統的な祭事や信仰とアメリカからもたらされた文化とをモティーフとしたポップな立体作品と絵画とで構成される、しまうちみかの個展。

会場は通りに面していて、ガラス張りの壁面を持つ。通りに向けて、人物埴輪のような焼き物《雪男~自律について“青森でみたもの”からの一部》と、闇夜に炎とともに佇む天狗のような仮面を被った人物を描いた絵画《その火を飛び越えて》とが並べられている。前者は短い棒のようにした粘土を脚以外の全身に貼り付けて毛むくじゃらの存在を表現したもの。後者はピンクや黄緑が鮮やかな火を前に、大きな目、長い鼻、開いた口から並んだ歯が覗く仮面を被った人が煙草を手にしているが、その腕などは波打つように揺らいでいて、この世のものではないようにも見える。立体作品と平面作品とが、異界の存在との邂逅の先触れとなっている。

 まれびとという概念をはじめて提唱したのは、国文学者であり民俗学者でもあった折口信夫である。折口は師である柳田國男にみちびかれるようにして、この極東の列島に住み着いた人々が現在にいたるまで保続けてきてくれた信仰の原型にして祝祭の原型を求めて南島、沖縄に旅立った。
 そこで折口は、人々が2つの世界を生きていることを知る。人間たちが生活している現実の世界と、海の彼方にある、死者となった祖先たちの霊魂が集う超現実の世界、異界にして他界でもある「妣が国」である。2つの世界は別々に存在しているわけではなく、1年に1度、定められた時間と空間で1つに交わる。そのとき、「妣が国」ニライカナイから、全身に草をまとい、巨大な仮面を身につけた異形の神々がこの地上を訪れる。異界にして他界から「まれ」に訪れる神にして人。折口は、そのような存在を、まれびとと名づけた。
 折口に最も影響を与えたのが、沖縄の南西端に位置する八重山諸島で耳にしたまれびと祭祀の詳細である。森羅万象あらゆるものを生み落とした祖先たちの国に通じる島の洞窟、その秘密の洞窟の奥深くから湧き出でている水を注ぎかけることによって、蛇が脱皮を繰り返すように仮面もまたその生命を回復する。そうした仮面を身にまとうことによって、選ばれた人間たちが徐々に神々へと、動物と植物と鉱物、森羅万象あらゆるものが1つに混じり合ったような異形の神々へと変身していく。
 まれびとによって超現実の世界と現実の世界、神々の聖なる世界と人間たちの俗なる世界が1つにむすばれ合い、時間と空間はともに始原であるゼロへと回帰し、そこからまた新たに生み直される。旧い世界の秩序が滅び、新しい世界の秩序として再生される。それとともに、人々の絆もまた新たにむすび直される。原初の祝祭とは、まれびとによってはじめて可能になったものなのだ。しかも、そうした祝祭は過去に1度起こっただけでなく、現在いま目の前で繰り返され、さらに未来に続いていく。まれびとは、空間的な彼方と此方を1つに結び合わせるだけでなく、時間的な過去と未来をも1つに結び合わせてくれるのだ。
 南島に残されていた、極東の列島の固有信仰であるまれびと祭祀の上に憑依の神道が重なり、さらにその上に森羅万象あらゆるものが覚りを得られる、つまりは如来となる種子を胎児のように孕んでいると解く如来蔵の仏教が重なり、能や修験道をはじめとする中世の芸能や信仰が可能になった。折口は、そう考えていた。それだけではない。まれびと祭祀、仮面来訪神祭祀が残されていたのは、南島、沖縄だけに限られていなかったからだ。南島から遠く離れた秋田男鹿半島の「春来る鬼」ナマハゲの消息を聞いて折口は驚嘆する。北の半島にもまた、明らかにまれびと祭祀が残されていたのである。
 つまり、人々は自らまれびとそのもののようにして遙かな海を渡り、途中で立ち寄った、航海のための目印となったであろう半島のような土地にまれびと祭祀を点々と残していったのだ。おそらく、まれびと祭祀は、近代的な国境という概念を易々と乗り越えて、南と北の島々の果て、空間的にも時間的にも、その限界を遙かに超え出た果てにまで広がっているのである。(安藤礼二『縄文論』作品社/2022/p.238-240)

入口を入ると、正面の壁に掛けられた黒い背景の絵画2枚が出迎える。《「来訪神のシリーズ「Come and go」》には、夕闇の浜辺に、大きな目を持つ色紙や紙垂で装飾された仮面を被る海水パンツの人物が佇む。仮面の人物は絵画の下端の白い枠の上に描かれるのは、境界を跨ぎ越す存在すなわち来訪神であることを示すためだろう。画面に散らされた「凡聖不二」の文字(「森羅万象あらゆるものが覚りを得られる」ことを表わす)は、ここでは来訪神を迎え入れる者が来訪神と同一であることを示すものと解される。作家の作品にはジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet)に通じるものがあるが、デュビュッフェが唱え実践したアール・ブリュット(Art brut)に「凡聖不二」とのアナロジーが認められるからではないか。立体作品《トランス、トランスフォーム~ピンクの外来心》ではブリコラージュのようにピンクのレジ袋を用いて神像を造型しているのも、表現への衝迫であり、アール・ブリュット的と言える。夜空には飛ぶ飛行機や空飛ぶ円盤が描かれている。それらは来訪神を運んで来る(あるいは運び去る)のであり、浜辺(陸と海との境界)が世界や宇宙と繋がる開かれた場であることが表現されている。《「来訪神のシリーズ「トシドンとわたし」》には、尖った眼、天狗のように長い鼻、牙が覗く大きな口を持つ仮面を被った人物が、闇夜の櫓と焚き火(?)を背景に小さな緑色の宇宙人と手を繋いで立つ姿が描かれる。仮面を被ったトシドンは来訪神であるが、それならトシドンと手を繋ぐ「わたし」は「宇宙人」ということになる。展覧会のタイトル「辺境の宇宙」とは、地球のことであろう。宇宙の一隅に存在するという点では、「わたし」も地球と同様である。そして、宇宙に存在する「わたし」は宇宙人なのだ。
中央に円錐状の山が聳える円盤状の島に樹木とともに佇むフードを被った人物を表わした焼き物《My Alter 青森でみたものシリーズから「TAINAI-MEGURI」》、あるいはその向かいに展示されている、フードを被った人物が松明を手に焚き火に向かっている絵画《TAINAI-MEGURI》は、題名の通り胎内めぐりを主題とした作品である(なお、社寺参詣曼荼羅を模した絵画《ファンタジーワールド‐ファンタスティックワールド》も同旨の作品であり、その中央には泉が存在する)。胎内巡りは再生という点で、まれびと祭祀と共通する。作家の絵画において闇夜が背景とされるのは、絵画群を通じて洞窟のイメージを立ち上げるためではなかろうか。展示空間は胎内巡りの洞窟――それは宇宙のアナロジーでもある――となり、そこに足を踏み入れた鑑賞者を再生へと導くのである。