展覧会『VOCA展2024 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─』を鑑賞しての備忘録
上野の森美術館にて、2024年3月14日~30日。
学芸員や研究者に推薦された40歳以下の作家が平面作品の新作を出品する現代美術展。1994年より毎年開催され、31回目を数える今年は31名の作家が出展する。
山下耕平《自室の模様》(2300mm×3320mm×65mm)は直方体の部屋を天井・壁・床の接線――しかも極めて細い線――だけで遠近法を強調した形で表わし、電灯、2つの窓、出入り口、作業台(4つの箱を重ねた上に板を置いたもの)、そして人物――恐らくは同一人物――を異時同図的に4人配している。右側の壁にはカーテンがかかった窓がある。カーテンには目、鼻など顔の部分が連続する模様がプリントされている。カーテンが開いた部分からは青の絵具で表わされた屋外の景観が覗く。その傍に作業台があり、鉛筆を手に何かを描くことに集中した人物が坐っている。奥の壁にも窓があり、人物が右側のカーテンを束ね、窓から赤紫色の街が見える。左の壁には出入り口があり、真っ黒な部屋の外に向かってTシャツにデニムのパンツの人物が出て行く。Tシャツの背には女性――恐らくはこの部屋の本来の持ち主である姉――の顔が大きくプリントされている。天井からは電灯が吊り下がる。電球は黄色い光を放つ。天井には膝を抱えて蹲る人物の姿もある。そして、床には1本の鉛筆が落ちている。人物や家具などのモティーフはほぼクリーム色で表わされるが、窓外の景色や電球などの色味によりほとんどモノクロームの画面とは思えない鮮やかさがある。色は塗られているのではなく、別途描きいて乾燥させた絵具が貼られることで描かれている。人物は右から左へ順に、作業台に向かう、カーテンを束ねる、天井で膝を抱える、部屋から出て行くという動作をしている。とりわけ膝を抱える人物が天井に貼り付いている不可解さ目を引く。ひょっとしたら蛹の表現ではなかろうか。人物が羽化して虫籠から出て行く空想に誘われる。もっとも鉛筆が落ちているのは、羽化(=部屋を出ること)が人物にとっては自失になるのかもしれない。
しまうちみかの《We are on fire わたしたちは最高》(1940mm×3910mm×90mm)には、夜、枇榔の立ち並ぶ浜辺に来訪神が来臨した場面が描かれている。大きな目、剥き出しの牙、ボサボサの髪、長く伸びた髭などを有する異形の神々が闇の中に神々しく浮かび上がっている。布や銀紙などが貼り付けられた部分もあり、来訪神の出で立ちを画面に引き込んでいる。ハリウッド映画のロゴの入ったTシャツや某大統領候補のスローガンを記したキャップを付けている者たちも紛れ込んでいるが、来訪神として迎えられているらしい。画面下部の虹のような帯は浜に打ち寄せる波だろう。宝船に象徴されるように、財宝は海の向こうの常世の国からもたらされる。波は此岸と彼岸とを繋ぐ虹の架け橋に比せられるのだ。
長田奈緒の《Spill(on wooden board)》(2450mm×3600mm×22mm)は、白木の板にペットボトルの水が溢れてしまったように見える作品。壁に掛けて展示されている。作品の上にペットボトルが置かれているが、おそらく既製品ではなく、アクリル板にラベルを貼るなどして制作したものだろう。白木の板もひょっとしたら木目を印刷した紙かと疑ってしまうが、素材に木が挙げられているので本物のようだ。水はシルクスクリーンで刷った版画であり、白木が「乾く」ことはない。覆水盆に返らずだ。版画や絵画が現実を写すことであるなら、まさに王道の作品と言える。他方、現実に擬態することを重視するなら、ディスプレイ越しに物事を認識する現実を象徴する作品とも解される。
大東忍《風景の拍子》(1303mm×3880mm×30mm)【VOCA賞】は、麻布を張ったパネルに木炭で夜の地方の住宅街を描いた作品。草生した中に点在する民家は空き家なのか灯りが点らない。他方、街灯は誰もいない道を煌々と照らし出している。画面中央奥に、両手と右足を上げて踊る人の姿が描き込まれているのに気が付くと、途端に街灯は奉納される舞を照らす灯明となる。踊り手は「まれびと」であるが歓待する者は街灯以外にないという点に衰退する社会の実相が浮かび上がる。
大山智子《SETOUCHI》(2490mm×3990mm×35mm)は、瀬戸内海の島々やその間を行き交う船を単純化・抽象化して描いた素朴な雰囲気を有する作品。手前に湾を配し、画面中央には橋の架かる島々の姿があり、海の狭さが表現されている。島々はこんもりとしたパンのようなこんもりとした塊で、それぞれ緑、青、灰色などに塗り分けられ、ひしめいている。島々の間を縫うように抜けて行くのが玩具のような船である。画面中央から上は、奥に広がる海と島々というより、雲の浮かぶ空のように見える。作家には空に浮かぶ雲が、島々の影送りに見えたのではないか。
片山真理《red shoes #001-#003》(各2022mm×1269mm)【VOCA奨励賞】は作家のセルフポートレート。部屋の天井から垂らした白い布背景に、下着姿の作家がレリーズを手にカメラに佇む。鞭を振り上げるように高々とレリーズとコードを掲げ(《red shoes #003》)、カメラのレンズに向かって対峙し(《red shoes #002》)、あるいはカメラから身体を背けている(《red shoes #001》)。いずれの作品でも、作家の脚に当たる部分には、白い布に赤いハイヒールを「履いた」沢山の腕や脚のオブジェが取り付けられ、赤いシューズを装着した義肢が立て掛けられ、あるいは置かれている。"red shoes"と題されており、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen)の童話「赤い靴(De røde Sko)」がモティーフになっているのだろう。多数の紅い靴を「履いた」「脚」は呪いにより踊り続ける状況を漫画的に表現したものと解される。「赤い靴」の少女は呪いからの解放のために足を切断することになる。もっとも、作家の義足には赤い靴が装着されている。アンデルセンの童話と異なり、義足でも踊り続けることが選択されている。境遇により選択肢を狭められてはならない、自らの価値判断を尊重する、といった意志が明確である。作家と、身の程を弁えることを強いられる童話の少女とが著しい対照をなす。あるいは、作家は頭足類たらんとしているのかもしれない。例えば蛸になったらどのような気分になるかを想像してみる。それは、義肢でない人が義肢の人の気持ちを想像することと重なる。多肢は、文字通り多様な選択肢の存在を訴えるのだろう。白い背景幕を容易したにも拘わらず敢てその幕の中に画面を収めなかったのも、一色に塗り込められてしまうことへの違和が表明されているようだ。
前田春日美《Harness》(1760mm×800mm×200mm)は、部屋の中や自宅周辺といった身近な景色から線を抽出し、それをアクリル板に写し取る、そのアクリル板や、アクリル板と実景とを組み合わせた映像作品である。本来繋がるはずのない物と物とがアクリル板の平面上では線として繋がる。地球からの距離が全く異なる星々が地球から等距離の天球に貼り付いて見える、天球と同じ構造を持っていると言えよう。映像作品では、アクリル板上に伸びる線が突然風景を構成する一要素に変じる。本来存在しない線を世界から抽出するイリュージョンであり、それは絵画の骨組みとなっているものである。
堤千春《Suppress》(1940mm×3900mm×30mm)は、赤に近いピンク色の肌の少女(?)5人が画面を埋め尽くす。いずれも丸い目に丸い眼球、子宮の模式図にも見えなくない口、仮面のような切り取られた輪郭を持ち、貼り付いた笑顔が見る者に強い印象を残す。少女の髪や身体も同色の赤に近いピンクで、それぞれ切り絵のようにカットされた形で顔の周囲に配される。輪郭をなぞるように、あるいは無軌道に、黄やオレンジや青や緑の描線が描き足されることで、不思議と混沌という秩序ないし調和が生まれている。
木下理子《Living Room Cosmology》(1800mm×3200mm×50mm)は、白い樹脂粘土で葉脈のようなものと点とを描いた円形の黄色い寒冷紗2枚を、僅かに重なるように横に並べた作品。2つの黄色い円は、葉脈のはっきりした葉にも、2つの太陽にも見える。寒冷紗のモアレは銀河を連想させる。葉の細部というミクロを眺めていったときに、いつしか宇宙のマクロな視点に達するような、両極が繋がる感覚が表現されている。