展覧会『藤原康博展「記憶の肌ざわり」』を鑑賞しての備忘録
日本橋三越本店コンテンポラリーギャラリーにて、2021年8月18日~30日。
《逢魔が時》、《鎮守の杜》、《shed》、《sleepwalking》など青の濃淡で表現した「風景画」(油彩・キャンヴァス)のシリーズと、《あいだの山》、《あいだの山-mountain in between-》など使い古した板の木目を活かして峰の連なりを白い絵の具で表わしたシリーズを中心に、藤原康博の絵画25点を展観。なお、《あいだの山》を冠する作品は、キャンヴァス3点、板2点の計5点出展されている。
冒頭に掲げられている《逢魔が時》(2021)は、2つの低い石柱の入口の向こうに立つ切妻の簡素な家が闇に佇む様子を青の濃淡で表わしている。「逢魔が時」という題名からは、例えばウジェーヌ・グラッセの《硫酸魔》の夕景を連想させるが、それとは全く異なる極めて静寂な世界である。もっとも、一種の「ネガ」のように捉えれば、補色ないし反転色として夕闇の世界が立ち現れることを忘れてはならない。また、展覧会タイトル「記憶の肌ざわり」を勘案すれば、作家は脳裏に浮かぶ情景を画面に「サイアノタイプ」のように青く浮かび上がらせているのかもしれない。
《鎮守の杜》(2019)では、水田の広がる中に広がる木立を、地平線を低くして空の占める割合を高くして青の濃淡で描いている。画面上部の黒い汚れや画面下部の濡れたような表現は、「サイアノタイプ」の「露光」からの「経年」を偽装し、対象との懸隔を強調する。水の張られた水田の中に姿を見せる「鎮守の森」は、《鎮守の杜》(2021)では、夕日を浴びたカーテンを背に、フローリングに佇立する。水鏡のような床板にカーテンが落とす影が、樹木の影に見立てられ、そこに木立の幻像が現れる。青からオレンジへ、あるいは屋外から屋内への反転は、作者の脳裏から画布への転生をなぞるようだ。記憶は触知可能な物質と化したのである。
《鎮守の杜》(2021)において、床に映ったカーテンの影から木立が姿を現したように、1167mm×910mmのキャンヴァスの《あいだの山》(2021)では、無地の布団とカーテンとの間に氷食尖峰が幻視されている。シーツの皺は水面に立つ漣を連想させる。727mm×910mmのキャンヴァスの《あいだの山》(2021)でも同様に無地の布団の上にカーテンを背にホルンが表わされている(因みに、530mm×455mmのキャンヴァスの《あいだの山》(2021)では草花のクッション自体が峰に見立てられている)。《sleepwalking》(2021)では、幾何学模様のベッドカヴァー(?)を征く2人の人物の姿が描かれている。「サイアノタイプ」のような画面は、作家がその構想を提示する「青写真」でもあった。
出展作品中最大画面(1800mm×4500mm)の《あいだの山-mountain in between-》は、テープを貼った跡や、別の板と交換された部分などがある、使い古された板に白い連峰を描いた作品。汚れて黒ずんだ板に表わされた山稜の白い絵の具が眩しい。木目の細かな線が、切り立つ山の表情を作っている。板も高峰も、たとえその期間が比較にならないほど異なるにせよ、風雪を乗り越えてきたという点では共通する。木板は山容の見立てなのだ。そして、板に塗られる白い絵具は、山嶺を覆う雪に等しい。さらに浸食された山容を包み込む雪は、困憊した身体を包むシーツに比せられる。本作は、人を描いた作品とも解しうるのである。