可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 日野之彦個展『窓辺』

展覧会『日野之彦「窓辺」』を鑑賞しての備忘録
SNOW Contemporaryにて、2021年10月15日~11月20日

肖像画10点で構成される、日野之彦の個展。

《縞の下着》(1620mm×1940mm)には、壁際の床に倒れた恰幅のよい男の裸の上半身が描かれている。壁はほぼ灰色を呈し、床は一見すると灰色だが、淡い紫や黄などの混色で、壁よりわずかに明るい。男が履いている白と水色の縞の下着が画面左に覗き、量感ある真ん丸の腹を引き立てる。裸体か着衣か、身体の一部か全部か、あるいは横たわる向きなどが異なるが、無地に近い画面の左側で(闘牛士の手にする)色褪せたムレータがアクセントになっている、エドゥアール・マネ(Édouard Manet)の《死せる闘牛士(L'Homme mort)》を連想させなくもない。画面左側の腹に対して、画面右側では男の顔、とりわけ見開かれた目の強さによって、画面は均衡を保っている。もっとも、男は左腕に左頬を載せているものの、「枕」が無く、頭部が宙に浮き不安定だ。ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)の《マラーの死(La Mort de Marat)》のマラーでさえも、頭部をもたせかける槽の背(?)があるというのに。「縞の下着」の男の左腕には静脈が浮き出し、鑑賞者に対して力なく真っ直ぐに伸ばされている。アンドレア・マンテーニャ(Andrea Mantegna)の《死せるキリスト(Cristo morto)》のキリストの身体のように、画面の奥行きが強調されている。肖像画でありながら横たわる姿勢と表情とによって、一連の死体を描いた作品を連想させる《縞の下着》は、静止した(still)実在のモデル(life)を描いた静物画(still life)であり、ヴァニタスである。「縞の下着」の男のように壁際の床に倒されたブロンズの頭部像を描いた《転がる頭》(500mm×606mm)を合わせ見れば、そのような解釈も強ち的外れではないと得心される。

《窓に寄りかかる》(1940mm×1303mm)は、窓台に軽く腰掛ける少女が描かれた作品。倒れた成人男性を描く《縞の下着》に対して、凭れながらも立つ少女の組み合わせが面白い。背後には、青空を背景とした木立が見える上側の窓、窓枠を挟んで向こう側の景色が判然としない下の窓、壁、そして床と、上から下へ平行する4つの区画に分けられる。上の窓には少女の頭部、下の窓には少女の胴体と窓に当てられた左の掌、窓枠に腰掛けている関係で壁から離れた両脚、床には軽く浮かせられた状態で両足が着いている。左腕、胴部の左側、左の太腿に光が当たって輝いている。窓ガラスに接した左手の指が光の効果で赤く見えるのが、指先に僅かに添えられた緑色によって強調されている。接近してみるとペインティングナイフによる肌の表現は荒々しいが、画面全体を視野に収めようとするとき、光に輝く産毛や滑らかな肌を確かに捉えていることが分かるだろう。腰の部分を支点として左手と両足とでバランスをとる不安定な姿勢の肖像画である。不安定なのは、少女のとる姿勢のみではない。明確に外界(窓外の木立)を認識していること(頭部)を示す最上段の区画に対し、外界へ伸ばされる左手を描く2段目の区画では、窓は外界を見せることなく曖昧模糊としている。最下段の示す通り自分の脚でしっかり立つことのできていない少女は、ガラス越しの「映像」(情報)としての世界を眺めつつ、まだ外界へと踏み出す(あるいは自立する)ことが出来ない。思春期を迎えようとしている少女は、その存在自体が不安定なのだ。