可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 松下真理子個展『人間の声』

展覧会『松下真理子「人間の声」』を鑑賞しての備忘録
現代芸術振興財団にて、2021年10月28日~12月18日。※当初会期(12月4日まで)を延長。

絵画10点とインスタレーション1点とで構成される、松下真理子の個展。

表題作《人間の声》(606mm×455mm)の画面一杯に描かれるのは、幅の広い大きな胴に小さな頭部と長い首とがに付いた、サントリーオールドのボトルのような形状の人物像。干し首のような頭部には3つの丸い穴で表される目と口があり、目には光のような円が配されいる。ベージュと朱色との横縞の背景と相俟って、エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)の《叫び(Skrik)》を連想させる。頭部と胴体とを接続する首は漏れか凍結を防止するためにテープが巻かれたパイプのようだ。幅広い肩から胴体に添って伸びる左右の腕。手前にあることを示すためか巨大に表された右手――左腕の先に手が存在しないので余計に存在感がある――は、皮膚あるいは肉をめくり上げるように胴体の中の赤い空洞を示している。その空洞から胴体に比して頼りない2本の脚が伸びている。「人間の声」を表すなら、何を描くだろうか。ピンクの画面に頭部を描いた《声1》(455mm×380m)や《声2》(455mm×380m)――壁面の高い位置に掲げられることでツァンツァのイメージを高めている――のように、顔で開かれた口を表すことが考えられる。《人間の声》でも頭部は描かれているが、中心となるモティーフは切開された腹部である。血に染まった空洞が恰も蝉の持つ共鳴室のように呈示されているのだ。

 石牟礼〔引用者補記:道子〕さんは、4、5歳の少女のとき、盲目で神経病みのおばあちゃん、「おもかさま」と、もう年がら年中、一緒にいらっしゃったんですね。その「おもかさま」との交信状態こそが石牟礼道子の秘密だったのです。
 で、「ああそうだな、なるほど」と思いましたのは、わたくしが25年間、奄美に通いまして、島尾ミホさんを追っかけたのも、ミホさんの子どものほう、この方はマヤちゃんと言って、ちょっと精神障害をおこして、身体不自由になったような方だったのですが、そういう女の方が持っておられる、もうフェミニズムなんていうんじゃとても通用しないような、それからまた吉本〔引用者補記:隆明〕さんの「南島論」や、折口〔引用補記:信夫〕さんの「妣が國へ」なんかでも通用しないような「女」、女がみずからの女の胎内を感じることのできるような能力、しかもそれが途方もない狂気をともなっているような、そういう筋が、石牟礼さんを通して見えてきたのです。こういうものはね、日本近代文学にはもうまったくないものなのです。
 (略)
 ここに石牟礼さんが「おもかさま」との交感をしるしづけている歌を2首、挙げておきましょう。
 あらぬこと一人ごちますおほはは(祖母)の声細々とききとりがたき
 狂ひゐる祖母がほそほそと笑ひそめ秋はしずかに冷えてゆくなり
 石牟礼さんの少女性が、幼い耳で聞きましたこの「ほそほそと(細々と)」が、途方もない、咽喉の小径なのです。
 吉本隆明さんがわたくしの作品の論評に、「内臓言語」ということばを使われたことがありました。これは三木成夫さんの、植物は動物と、身体および器官言うなれば「裏返し」にした状態にあって、動物であれば体内にある内臓が、植物では外部にさらけ出されている、という説に絡めておっしゃったのですが、吉増の言語は奈良朝以前のものであると同時に、フロイトの無意識よりもさらに深い底を掘っている。つまり根源の言葉を探している、その深い根源性みたいな意味で内臓性という用語を出してこられたんですね。フランシス・ベーコンの、身体の内と外が裏返しになったような絵画作品にもこの感覚が、よく出ているように思います。
 「おもかさま」の気配といいますが、姿をどうそ、次の引用からごらん下さい。「おもかさま」と石牟礼道子さんがこうして一体になっているのですね。

 そのとき、低いしわぶきの声がしました。
 「よーい、みっちんよーい、どけ(何処)おるかにゃあ」
 めくらのおもかさまが、みっちんを探しているのです。馬が去ってうった方に、山が昏れかかっていました。
 「よーい、みっちんよーい、何処おるかにゃあ」
 めくらのおもかさま、みっちんのばば〔祖母〕さまが、彼方にともる灯りを探すように手をさしのべながら、そろそろと足探りしてきます。
 みっちんは昏れてゆく山の方を見たまま、赤いねんねこの袖をひろげて、はたはたと振り、おもかさまの方に向き直ると、その手の中に飛びこみました。
 するとおもかさまが、ねんねこの上から手探りしてきて、いいました。
 「あよ、みっちんな雪だるまじゃあ」
 みっちんはすぐに、雪だるまの気持になりました。けれどもめくらのおもかさまの両の掌が、綿入れねんねこの上から方を撫でているので、粉雪にやさしく揺れていたあの馬のたてがみのように心が揺れて、雪だるまの中から抜けだし、薄墨色に包まれた、不思議な夕暮れの中に立ちました。
 「ここはどこじゃろう」
 と、みっちんはいいました。そこは、いつも遊んでいる自分の家の前の道でした。けれども雪の洞になっているので、初めて見る世界のようでした。(『あやとりの記』第1章「三日月まんじゃらけ」より)

 わたくしは、どういうつもりで吉本隆明さんが「内臓言語」とおっしゃったのか、最初はわかりませんでした。ところが、石牟礼道子さんの著作と出会って、「おもかさま」という盲目で気が狂った石牟礼さんのおばあちゃんの言うことが、体内の海みたいなものを通過することによって、この内臓言語的な根源性ということと、ふとつながってきたのです。わたくしが朗読なんていうことをいたしますのも、自分の体内から出てくる、ある深い、深ーい何らかの「声」みたいなものを自分の内部、それも臓物のようなレベルで探っていて、どこかにもっともっと違うものがあるはずと、その底の底を、掘り出そうとするしぐさをしているのだと思うのです。その内臓からの「声」が「咽喉」という、これもまた1つの内臓器官を通過してゆく、そのある身ぶりこそがおそらくは、わたくしの「朗読」といわれるものの核なのです。(吉増剛造『詩とは何か』講談社講談社現代新書〕/2021年/p.98-102)

会場に並ぶ絵画からフランシス・ベーコン(Francis Bacon)の絵画を連想することは難くない。《人間の声》こそ「フランシス・ベーコンの、身体の内と外が裏返しになったような絵画作品」と言えよう。そして、鑑賞者は《人間の声》の胴体の中に広がる洞穴に一旦入り込み、産道ならぬ咽喉を抜け出すことで「ここはどこじゃろう」という感慨に耽る。そのとき、世界に対して新たな眼差しを向けているのだ。そして、鑑賞者は、ギャラリーの壁面の下にある溝を埋める布や毛によるインスタレーション《侵入を拒む》が、展示空間そのものを胎内にする作家の企てであることに気付かずにはいない。会場に入り作品を鑑賞して会場を後にするとき、鑑賞者が「ここはどこじゃろう」との感覚を、すなわち新たな視座の獲得を可能にすることが狙われている。なおかつ鑑賞者は、作家の胎内巡りを終えて発せられた「人間の声」そのものとなっているのである。