展覧会『汪汀個展「緑地」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2024年3月25日~30日。
骨董品の家具の扉などに、刈り込まれた庭木の写真をピンクで印刷したバックライトフィルムを取り付け、内蔵したLEDライトで光らせた灯籠のような「A Moment of Pleasure」シリーズ8点、プラスティックや金属などの工業製品と植物とを組み合わせた「偽自然」シリーズ3点、木製の支柱の上に取り付けた金属製の容器に土を入れて小麦を蒔いた「緑地」シリーズ3点で構成される、汪汀の個展。
「A Moment of Pleasure」シリーズは、骨董品の一部に庭木の写真を嵌め、内側からLEDライトで照らし出した灯籠のような作品。骨董品には、箪笥や小物入れなど手の込んだ家具、おままごとで使うものか家具のミニチュアがあり、何の装飾もない箱も、ブリキのカンテラもある。それらの戸や扉など一部に、ピンク色でバックライトフィルムに印刷された庭木の写真が嵌め込んでいる。庭木は小枝を落とされて太い枝だけにされたもの、球や直方体のような幾何学的形状に剪定されたものなどがある。いずれも夜間に撮影されたものらしい。写真をピンクに輝かせているのは、「飾り窓(Window prostitution)」から着想されているためである。娼婦と庭木とはともに狭い空間に囲い込まれ、見栄えするよう装飾され、視線の対象となる。翻って、眼差しの主体である人間――そ-れは"Man"のように男性として表現される――が浮かび上がる。
「偽自然」シリーズは工業製品と植物とを組み合わせた作品。《偽自然 #1》(1200mm×900mm×250mm)は鏡の上に榾木を接着し、その周囲にプラスティック製の草のようなものを植え込んだもの。《偽自然 #2》(500mm×300mm×200mm)は、金属板の上に時計を中に仕込んだ朱色のプラスティックのケース(?)を取り付け、その穴から植物の穂が飛び出し、僅かに動く作品。《偽自然 #3》(200mm×300mm×1200mm)は、青い半球状のケースの中から植物の穂が飛び出したもので、天井からチェーンで吊り下げられている。
人新世的状況に関してエコクリティシズムでよく言及される作品のひとつに、アメリカの環境ライター、エマ・マリス(1979-)の『「自然」という幻想』(2011)がある。「自然はほぼいたるところにある。しかし、どこにあるとしても必ず共通する特徴がある。「手つかずのものはない」ということだ」というマリスの見解は、人の影響が地球に隈なく及んだ人新世的状況を踏まえたものだ。手つかずの自然を〈あるべき自然〉とみなし、開発以前の生態英の保護を絶対的目標としている限り、身のまわりの自然に意識が向くことはない。マリスは、手つかずの野生/人の手の入った自然、在来種/侵略種といった二項対立をほぐし、生活環境にある身近な自然を「新しい自然」と再定義した。街路樹や空地は鳥や昆虫や小動物の棲処であり、人間社会とは異質な自然の理法に司られている。こうした「新しい自然」をマリスは、半分野生の「勝手に生い茂っている庭」(rambunctious garden、邦訳では「多自然ガーデン」)と名づけ、これからの自然保護は手つかずの自然に戻すことを試みるのではなく、野生化しつつある自然を人間の管理のものとで(その管理には放置という手段も含まれる)未来に向けて育てていくべきだ、という方向性を打ち出した。(結城正美『文学は地球を想像する――エコクリティシズムの挑戦』岩波書店〔岩波新書〕/2023/p.90-91)
植物が人工的環境と切り結ぶ環境を象徴する「偽自然」シリーズは、エマ・マリスの「新しい自然」同様、周囲に広がる「自然」に眼を向けるよう促すものである。すなわち《偽自然 #1》では鏡により環境について熟考(reflection)を促すとともに主体・客体の二項対立の思考から解き放たれることが訴えられ、《偽自然 #3》では問題が保留されている(pending)状況が示され、《偽自然 #2》ではその状態で時間だけが徒過することが揶揄されている。
表題作の「緑地」シリーズは、木製の支柱の上に取り付けた金属製の容器に土を入れて小麦を蒔いた作品である。作家は、ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)の《種をまく人(Le Semeur)》よろしく「種を蒔く人」である。支柱によって極小農地をリフトしたのは、屋上や壁面の緑化あるいは農地の試みに擬えてのことであろうが、むしろ地と天との反転により、思考の転回を促すことに主眼があると目される。