可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『共振する風景』

展覧会『共振する風景』を鑑賞しての備忘録
駒込倉庫にて、2023年10月21日~11月12日。

大野綾子の石彫、鈴木のぞみ写真、福本健一郎の絵画、Mrs. Yukiの絵画で構成される展覧会。

鈴木のぞみの《Monologueof the Light: 木製の柵の節穴から 埼玉》(203mm×254mm)は、珈琲を溢した痕のように、明暗の異なる茶色が白い画面に拡がる。タイトル通り、木製の柵の節穴越しに撮影した(ピンホールカメラのように印画紙をセットした?)写真なのだろう。同じく鈴木の《Other Days, Other Eyes: 田中邸きくの間の窓》(1373mm×1715mm×30mm)や《Other Days, Other Eyes: 田中邸台所(旧女中部屋)の窓》(765mm×805mm×30mm)では、樹木など窓越しの光景を窓枠の実物とともに展示することで、ある日の室内からの眺めをそのままギャラリー内に持ち込んでいる。さらに、鈴木の「Specimen of Shadow」シリーズは、小さな石ころにサイアノタイプを施した作品で床の白い板の上に転がされている。青い石の表面の像のほとんどは鮮明ではないが、中に草葉が映り込んでいるのが認められるものがある。作家が作品によって提示するのは、柵や部屋や石ころの眼差しである。柵が、部屋が、石ころが、見ている、と訴えるのだ。メルロ=ポンティの言う「裂開」(déhiscence)であろう。「すべての見られるものはまた見るものでもある」。柵が、部屋が、石ころとヴァイブス(vibes)をともにし(=共振し)ている。

 見えるものがわたしを満たし、わたしを占有しうるのは、それを見ているわたしが無の底からそれを見るのではなく、見えるもののただなかから見ているからであり、見るものとしてのわたしもまた見えるものだからにほかならない。1つ1つの色や音、肌ざわり、過去と世界の重み、厚み、肉をなしているのは、それらを把握している当の人間が、自分をそれらから一種の巻きつき(enroulement)ないし重複(redoubulement)によって出現してきたもので、それらを根底では同質だと感ずることであり、かれが自分に立ち返った見えるものそのものであり、その引きかえに見えるものがかれの眼にとってかれの写しないしかれの肉の延長のごときものとなることなのである。

 ここでわれわれは、自分が見えているものを「おのれの見る能力の裏面」として認めている。その意味で、わたしの身体と世界はおなじ〈肉〉でできているといわれるわけであり、両者が越境と跨ぎ越しの関係といわれるわけである。あるいはまた、わたし自身の可視性が見えるものすべてにまで延長されてゆくこのような出来事を、あらゆる視覚のもつ根源的な〈ナルシシスム〉であると規定している。こうした反転、自分を見つめる自分を見るナルシシスムは、〈鏡〉の現象としても既定される。「肉とは鏡の現象であり、鏡とはわたしの身体にたいするわたしの関係の拡張なのである」、と。
 見る身体と見られる身体は、触れる身体と触れられる身体へと切開され、さらに重ねあわされ、反転させられるこのプロセスを、メルロ=ポンティは「裂開」(déhiscence)とよんでいる。このような裂開のなかで、われわれが物のなかへ移行するのと同様に、物がわれわれのうちに移行するのである。とすれば、見るのはわれわれ主体だけはない。すべての見られるものはまた見るものでもあることになる。
 これはわれわれにとって、まったくなじみのない議論ではない。『知覚の現象学』では「ひとがわたしにおいて知覚する」というかたちで、知覚の匿名性が問題とされた。胃見られるものが見るという反転はいわれていなかったが、わたしが見るよりも「もっと古い可視性」が問題にされていた。『シーニュ』では空間自身がわたしの身体をつらぬいて自己を感じる」といわれた。が、この遺稿群では、「知覚するのはわれわれではない。物があそこで自分を知覚するのである」とまで表現が押しつめられる。
 この『見えるもの見えないもの』でも、またこの遺稿と同時期に書かれた『眼と精神』でも、メルロ=ポンティは画家アンドレ・マルシャンのつぎの言葉を好んで引いている。

 森のなかで、わたしは幾度もわたしが森を見ているのではないと感じた。樹がわたしを見つめ、わたしに語りかけているように感じた日もある……。わたしは、といえば、わたしはそこにいた、耳を傾けながら……。画家は世界によって貫かれるべきなのであって、世界を貫こうなどと望むべきではないと思う……。わたしはうちから浸され、すっぽり陥没されるのを待つのだ。おそらくわたしは、浮かび上がろうとして描くわけだろう。

 自分がふと物によって見つめられていると感じるとき、わたしは能動性と受動性の深い交叉を経験しているのだ。能動性と受動性との、内と外とのたえざる反転。わたしの視覚は、そういう〈肉〉のなかに縫合されている。(鷲田清一現代思想冒険者達 Select メルロ=ポンティ――可逆性』講談社/2003/p.270-273)

Mrs. Yukiの「Rende-vous」シリーズ3点(各1620mm×1300mm)は、生地の上に白い絵具を幅広の刷毛で左右に刷き、絵具が乾かないうちに蛇を這わせることで描いたと思しい。作家は「蛇の飼育」を行っており、「生きた生物による痕跡」「によって立ち上がる存在感を作品に残してい」ると説明があったからだ。作家は蛇を画面に放つ。蛇は体を「波」打たせて「動」くことで画面に「波」のような痕跡を残す。恰も陶芸家が窯に入れた作品の焼成について全てを思い通りにはできないように、作家は蛇の動きをコントロールできない。そこには描かせると同時に描かれてしまうという能動性と受動性との交叉がある。やはり蛇とヴァイブス(vibes)をともにし(=共振し)ている。

大野綾子の《Sea storm》(335mm×485mm×135mm)は、側面をL字に切り出した花崗岩で、表面に山型(^)の刻みが入れられた、縞鋼板の段差プレートのような作品。山型の刻みは「三角波」を連想させ、立ち上げられた「段差プレート」は「巨大波」に転じる。「波」とは粗密の移動であり、「振動」である。同じく大野の《動く山》(100mm×250mm×60mm)は、5つの種類の異なるアーチを連ね、横たわる妊婦が頭を浮かしている様子を象った砂岩の作品。腹部が山、膝を曲げた脚がトンネルに見立てられる。胎児が蹴って、「山」が動き、母親が起き上がる。子の運動が伝わって母の運動が惹起される。母は子に「共振する」のだ。さらに大野の《Past and just now》(500mm×445mm×350mm)は、木材のチップを固めた板(配向性ストランドボード)で出来た箱(上面が無い)の中に江持石製の5弁の花(あるいは5枚の葉)の植物らしきものが収めた作品。箱の側面の一部には山型ないし「波形」などの切り込みが入っている。波形の切れ込みのある箱は本展のギャラリーであり、植物はそこに持ち込まれた作品を象徴する。とりわけ、過去(past)の姿を現在(just now)に持ち込む鈴木のぞみの写真と「共振する」。

福本健一郎《The light of plants》(1120mm×1455mm)は、満月の中、紺色の闇を背景にオレンジ色に輝く植物が繁茂する。ひょろひょろと茎を伸ばす花、直角にあるいはU字に折れ曲がる枝が所狭しと画面を埋める。それは、光を求めて枝葉を伸ばす植物の運動を表わしている。陽差し(光もまた電磁「波」である)を受けてエネルギーに変換する植物は、蓄光して輝くのだ。同じく福本の《White butds, Red flowers》(1300mm×803mm)にも画面いっぱいに植物が描き込まれるが、その中には歩く男女の姿なども見られる。満月のような黄色い円の中に浮かび上がる人の姿は、恰も植物が捉えた視覚像ないし記憶に仕舞い込まれたイメージのようだ。植物が人を見つめている様を描くのだ。やはり植物と人とはヴァイブス(vibes)をともにし(=共振し)ている。

4人の作家が「共振する風景」を立ち上げた展示である。