展覧会『坂本美果個展「凪の中」』を鑑賞しての備忘録
KOMAGOME1-14casにて、2023年8月16日~27日。
絵画23点と立体作品《浮日草》で構成される坂本美果の個展。
《鳥狐が教えてくれる》(455mm×380mm)では、鳥狐が幻想の世界に誘うように翼を広げている。《赤い小屋》(360mm×316mm)の扉の奥の暗がりには河童らしき緑色の人影がある。ファンタスティックな世界を生み出すのは、例えば《隙間に羽浮かぶ国》(1940mm×1620mm)の海岸に打ち上げられた小鳥の死骸のようなものの前に2人の人物を配することで、日常的な光景を微視的な視点から眺めることによって行われる。同作品には海岸に様々なモティーフが埋められているように描き込まれているが、事物の内部や背後に潜むものに思いを馳せることも重要であろう。あるいは空から垂らされた糸のような補助線がひらめきのきっかけとなっているのかもしれない。
《ここにいる》(1167mm×1167mm)は、森の中にある池に育つ白百合を描いた作品。画面上部には切り絵のようなシルエットとなった樹の幹が格子状の柵のように池を囲む。木々の向こうには雪が舞うが、「柵」の中には樹冠のためか雪は降らず、楕円の池からは3輪の花を咲かせた百合の茎が伸びる。画面下部は池と地面の断面が描かれ、百合の根が力強く地中に伸びる。その地中より下、画面最下部には、夏の草地らしき景観が配されている。
白百合は柵状の木々によって隠され、池の水によって隔たれている。だが不可視の存在ではない。そこに確かに存在し、目を凝らせば目にすることができる。そして、白百合の生を捉えるようとするとき、地中に伸ばした根の存在に気付く。根を伸ばし、地中から水や養分を吸収する様を汲み取ることができる。そして、白百合の生を感じるとき、これまでの時間と、これからの時間に思いが至る。他の季節が地中に顔を覗かせているのは、生命が時間、すなわち変化であることの表現である。以上は、周囲の存在をダイナミックに捉えることによって可能になる。
メルロ=ポンティは、〔引用者補記:その著作『眼と精神』という絵画論の中で画家アンドレ・〕マルシャンの経験を、世界の外に立つデカルト的な純粋主観には絵画が描けないことの証左として取り上げた。メルロ=ポンティによれば、画家は身体で描くのであり、精神が絵を描くことなどありえない。絵画を描くために必要なのは、マルシャンによれば、対象から自分が見つめられることだ。そのためには、まず見られる身体をもっていなければならない。純粋精神は、定義上、不可視である。第二に、対象が私を見つめていると感じるためには、その対象を運動感覚的に捉えていなければならない。その対象が死物・無機物であってもである。身体のない精神にはこの運動的な対象の把握ができない。
(略)
(略)自然の美的な体験とは、自分を自然の一部として感じること、すなわち、自然を礼賛する作家たちがいう「交感(あるいは、万物照応、corresoindences)」の経験である。だが、それは自然から自分が見られることによってしか成り立たない。すなわち、自然を身体で経験するだけではなく、自分が、自然の側からの、樹木の側からの、野生動物たちの関心の対象となり、それらから見つめられなければならない。そうでない限り、自然のなかに入ることはできず、死背運との一体感は選らない。「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える」というのは、私の身体が描こうとする対象から取り憑かれるからである。対象から取り憑かれるということは、私が対象に共振し共鳴していることを裏側から述べている。そうした共鳴が可能になるには、私は対象を運動体として捉えていなければならない。
こうして、自分の周りにある存在を運動体としてダイナミックに捉えることができる者、そして自分自身も世界と同じ物で出来ている者、そして周囲に存在する諸事物たちの関心の対象となる者、これらの者が見られうる者である。精神はこうした存在には決してなりえない。(河野哲也『境界の現象学 始原の海から流体の存在論へ』筑摩書房〔〔筑摩選書〕/2014/p.55-56, 58-59)
メインヴィジュアルに採用された《踊る夜桜》(652mm×530mm)の画面上部には、木々の中の満開の桜をイメージさせる、暗い画面の中を切り裂くピンクの空間、画面下部には、桜樹の下の地面に敷かれたシートとそこに立つテントが配され、画面全体に花びらが舞い落ちる。敷物やテントの存在から夜桜見物の景観のようであるが人の姿は無い。闇の中でピンク色に輝く「桜」には、狩野長信《花下遊楽図屏風》の幔幕を連想させる幾何学的な線が重ねられている。地面に敷かれた黄緑のシートには2匹の恐竜が戦うイメージが表されている。のみならず、黄緑のシート上に設置された2つのテントのうち左側のものは赤い四角錐状で、花びら(の影)の黒い点と相俟って、季節外れのスイカのイメージ――緑の外果皮、赤の内果皮、黒の種――を呼び起こす。桜が象徴する刹那の美は幔幕やテント・シートといった仮設の品々、あるいはスイカが象徴する夏への移行によって変奏される。闇に浮かぶ桜の明暗は花びらの白と黒との反転によって繰り返され、また闇の中に浮かぶ桜の穴はテント(2つあるテントのうち右側の紫のテントは入口が開いている)さらには恐竜のイメージ(地中から掘り出される存在)によって増幅される。絵画の中は一見すると静謐であるが、対立するものがぶつかり合い、全てが瞬く間に変貌を遂げるダイナミックな世界である。誰もいない森で、夜、桜は踊るだろうか。それとも踊らないだろうか。直接観測することができない対象を巡る、量子力学の観測問題に通じる世界の表現でもある。