展覧会『三瓶玲奈・本山ゆかり・楊博「絵画の理由」』を鑑賞しての備忘録
MITSUKOSHI CONTEMPORARY GALLERYにて、2022年2月2日~14日。
三瓶玲奈の「線を見る」シリーズ3点を初めとする9点の油彩作品、本山ゆかりのキルティング「Ghost in the Cloth」シリーズ3点と透明のアクリル板に描画した「画用紙」シリーズ4点、楊博の8点の油彩作品で構成される、3人展。
本山ゆかり
《Ghost in the Cloth(ナイフ)》(1200mm×1100mm)は、レモン色の布とラベンダー色の布が半々になるように上下に繋ぎ、刃先を下にした波刃のステーキナイフ(?)を垂直に、それに対して30度右側に傾けた幅広の刃を持つデザートナイフ(?)を重ねたイメージをステッチによって表わした作品。色の異なる矩形の布を上下に繋ぎ合わせた「画面」は、空気と水のような異なる媒質を、ナイフの刃は光とともにその進入を、それぞれイメージさせる。「ステーキナイフ」が垂直に進入した光であるなら、境界面で屈折することはないが、「デザートナイフ」が30度の入射角を持つ入射光なら、境界面で屈折することになる。それに対して、ステッチにより表わされた2本のナイフはどちらも屈折することはない。物理現象ないし現実との差異が「絵画」がその場にいない存在(ghost)であることを浮き彫りにする。あるいは、ステッチにより表わされたナイフのイメージが、半分は布の裏に潜って見えない糸により構成されているなら、イメージは僅かしかないもの(ghost)である。しかも布と同じ色の糸で縫われることでかすかな痕跡(ghost)としての性格は強められている。糸を抜き去った時に現れる痕(ghost)をこそ思うべきだろうか。《Ghost in the Cloth(チューリップ)》(1000mm×1400mm)と《Ghost in the Cloth(チューリップ)》(1320mm×1440mm)ではチューリップをモティーフとしている。17世紀のオランダでは、存在しないはずの価値が亡霊として現れたことを思い出さずにはいられない。チューリップの球根(bulb)のバブル(bubble)。花・葉・茎が描かれた「画面」に、球根は存在しない。
《画用紙(果物かご)》(1000mm×1000mm)は、透明のアクリル板の中央に白い矩形が表わされ、そこに大雑把にも見える極めてシンプルな黒い描線で果物と容器とを描き出したドローイングのような作品。よく見ると、作品の表は、描画した面の裏側になっていることに気がつく。また、描線もところどころで断線しているのが分かる。アクリル板に白い絵具を僅かに垂らし、そこにイメージ(本作では「果物かご」)を黒い線で描き、その上から白の絵具を矩形に塗り込めて「画用紙」然としたイメージを得ているらしい。紙という支持体までも描いた「果物かごを描いた画用紙」の絵画なのだ。描かれた果物(≒餅)ではなく、果物を描いた紙≒(画餅)を描いた作品とも言える。画餅的性格は、紙が溶け出すように、白い絵具がアクリル板の描画されていない透明な部分に垂らされることで強調される。「Ghost in the Cloth」シリーズの精緻な「描線」と対照的な軽妙洒脱な線は、仙厓義梵などの禅画にも通じるようだ。穴とそこを通過するボールとその軌跡(効果線?)とを描いた《画用紙(ボール)》(910mm×600mm)など、瓢鮎図の変種に見えてしまうのである。
楊博
《Only Venus》(410mm×605mm)は、緑や茶などで塗られた模糊とした画面の3つ角に"moon"、"is"、"gone"と書き込まれた作品。右下の隅には文字がない代わりに、小さな銀の円が描き入れられている。銀の円が金星であることは、並べて展示されている、有明月と明けの明星とを描いた《Moon & Venus》(410mm×605mm)との対照で分かる。そこで金星は銀の円として表わされているからである。例えば肖像画はいつかは亡くなった(gone)人の姿を表わすものとなる。絵画と死ないし不在とは分かちがたく結びつく。だが《Only Venus》においては、敢て不在の対象を「描かず」に、その不在そのものを「描く」。そこに1つ目の反転が存在する。ところで「Only Venus」との画題は、「美神(Venus)だけ」、すなわち「美のみ」と読める。金星を描くことで美を存在論的に表わしながら、月については"moon"との文字に置き換えてその美を認識論的に把握しようとする。そこに2つ目の反転がある。2回の反転により、「元通り」の、金星だけを描いた絵画が目の前に立ち現れる。
三瓶玲奈
《線を見る》(727mm×606mm)は、画面下側4分の1程度を大地あるいは海を表わす焦茶が占め、その上側には雲のかかる空が濃淡や色味の差された灰色の面として広がっている。焦茶から灰色へ遷移する部分、それに平行する雲の切れ間から漏れる水平の光のような部分に、それぞれ「線」が見える。だが、天と地との間には焦茶色に灰色が淡く載せられて、また雲の切れ間には白、黄、紺、ピンクなどの様々な色が配されて、その部分を子細に見ると線の姿は曖昧になっていく。
網膜上にはたくさんの視細胞が稠密に並んでいる。それはちょうどデジタル・カメラの画素のようなもので、おのおののレンズを通してやってくる光の強度を認識する。視細胞は認識した光の強度を神経繊維を通じて脳に伝える。一方、視細胞は互いに隣どうしの細胞と連繋をとって、情報を交換している。ある視細胞にことさら強い光が入ってきたとする。この細胞はそれを信号に変えて、強い光が入ってきたことを脳に伝達する。そのとき同時に、隣の視細胞に対して、抑制的な情報を送る。「この光は俺が受け取ったから、おまえたちはそんなにさわがなくていいよ」と。ちょうど外野フライを捕球する野手が他の人間の動きを制するように。
するとどのようなことが起こるだろうか。周りが静まることによって、強い光を受け取った視細胞からの信号がことさら強調されることになる。つまり、コントラストがより明確化され、そこに境界線が作り出される。細胞と細胞のあいだのこのようなやりとり、つまり強い信号をより際立たせるための仕組みは、側方抑制と名づけられている。
マッハ・バンドの錯視〔引用者註:色が変わろうとする場所に、より暗いバンド、あるいはその逆の明るいバンドが現れる錯視の一種〕は、細胞レベルのこの特殊なメカニズムに依存すると考えられている。色が変化する場所を認識した視細胞は、その隣の視細胞の反応を抑制するように働く。結果として、変化はより強調され、ないはずのボーダー(境界線)が現れる。(福岡伸一『世界は分けてもわからない』講談社〔講談社現代新書〕/2009年/p.160-161)
《線を見る》という作品は、風景の中に地平線(水平線)を見るように、本来存在しない「線を見る」ために制作された作品である。
だが、そもそも感覚器官としての目が実際に見ているものは、われわれがいままで見ていると思い込んでいた対象の姿とは違う。眼に実際飛び込んでくる情報とみていると思っていた像のズレ、これが印象派から後期印象派、キュビスムに至る流れで画家たちが共有するようになった自覚だった。印象派は対象の輪郭をなくし、より直接的に変化しつづける光の揺れ動き、色彩の移りゆきを追いかけ、画面に定着しようと試みたが、明確になったのはこの実際に視覚器官に入ってくる、際限なく変化しつづける無数の断片的な感覚情報から、われわれが見ていると思っていた(いつも同じものと捉えていた)対象の姿=像は直接的にはもたらされない、ということだった。感覚から直接、われわれが捉えていると考えていた対象の姿が導かれないのであれば、われわれはそれをどのように把握していたのか?
すなわち現実を観察すればするほど対象に対する知識が増え、この情報が1つに束ねられるところの対象の像が正確になり強化されるのではない。むしろその統一された姿は解体していく。感覚情報の累積からは決して、そこに1つの対象が存在するというリアルな像はもたらされない(略)(岡崎乾二郞『近代芸術の解析 抽象の力』亜紀書房/2018年/p.10-11)
同題の別作品《線を見る》(1303mm×1940mm)においては、クリームやベージュの矩形と、紺や青の矩形とが恰も陣取りをするように配されている。大雑把に、下側に紺などの暗い色が、中央にクリームなどの明るい色が、最上部を再び青が占め、中央下部にオレンジの光とその反映のような色が置かれることで、仄かに夕景のイメージを喚起させる。
小説『明暗』は「三体問題」そのもののように、複数の人間が互いの心理を探り合うことで、かえって互いが影響を受け、個々が行なっているように見える意志的な決定が、実際は複数の人間が干渉し合う複雑な力学からもたらされたものにすぎず、その決定の因が誰にあるのかわからなくなる、という状況が記述されている。(略)漱石はいわば確率論的な小説を書こうと構想していたわけである。
『明暗』という小説のこうした構造、そして、その小説内ではじめから参照されているポアンカレの不確定性の理論などを考慮すれば、「則天去私」という語に正確に呼応する東洋哲学は「易経」をおいて他はない。実際、ポアンカレの「三体問題」に対応させられるように占いについての記述が『明暗』のそこここに見出される。すなわち、この未完の小説で問題とされているのは、確率的世界における自由意志すなわち決断とは何か(たとえば津田は意識決定能力=自由意志を持っているのか? 何によって彼は行動を決定しているのか?)である。そもそもタイトルの『明暗』は「易経」の根本原則に置かれている「陰陽」、つまり影と光(語順は反対である)そのままである
易経において、「天」はもっと絶妙な構造として理解される。天は必ずしも外界を意味はしない。易経の考察は精神と自然の二分法、対立を乗り越える、なぜならば外界として捉えられがちな自然の中に、個それぞれの意志が内在し、一方で個(私)の精神の内にも外部環境がすでに含まれているからである。天はそこここに偏在している。天とはこうして複数の構造が対応させられることで作り出されるネットワークである。たとえば自然に偶発に起こったと見える現象は、1つの構造内ではなく他の構造と対応される中で必然として選択=写像された結果である。それは1つの構造内で決定されたものではない。ある視点から偶発性と見えるものは、視点を変えれば必然的選択として現れる。この双方の視点の交差するところに自由意志が現象する。自由意志とは相互が対照し合う複数の構造(因果関係)が、入れ子状に影響し合うことで作り出される効果である。
漱石が内省によって見出した(「則天去私」という語によって示されている)のは、自己の精神そして身体の内部に、通常は自己として意識されていない、外部が存在することだろう。細かく述べれば、自己の心身の内に、自己意識を超えて外部と直接的に感応(たえずさまざまな情報を受け取り呼応)する無数の因果の系列=回路が存在しているということだ。自己の内部にこそ外部が入れ子状に存在し、また外部にこそ自己の意志がすでに存在している。(岡崎乾二郞『近代芸術の解析 抽象の力』亜紀書房/2018年/p.54-55)
作家がある風景を作品に描き出す。その風景は、作者が自由意志で選び取ったものである。同時に、作者の心身の内にある「自己意識を超えて外部と直接的に感応する無数の因果の系列=回路」が作用している。画面に表わされた矩形状の色が象徴する作用因の複雑な影響関係は、ほとんど偶発的事象と言える結果を導き出すように見えるが、必然的なものである。内部と外部とが入れ籠になっているからこそ、その風景、そしてそれを描き出した作品が、作者のみならず、鑑賞者を惹き付けるのだろう。