可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

映画『ちょっと思い出しただけ』

映画『ちょっと思い出しただけ』を鑑賞しての備忘録
2022年製作の日本映画。
115分。
監督・脚本は、松居大悟。
撮影は、塩谷大樹。
美術は、相馬直樹
ヘアメイクは、酒井夢月。
スタイリストは、神田百実。
劇伴は、森優太。
編集は、瀧田隆一。

 

夜の東京を走るタクシー。ハンドルを握る野原葉(伊藤沙莉)はマスクをしている。新宿の街角ではカップルがマスクを外してキスする姿が目にとまった。キャバクラ勤めの派手な女性客(安斉かれん)を乗せる。マスクを顎にずらして明るく大きな声で通話する彼女はいかにも幸せいっぱい。彼女は誕生日だという。おめでとうございます。昨日は眠剤大量摂取したけど。ギターケースを抱えた男を乗せると、トイレに寄りたいという。葉は高円寺駅近くの劇場の手前で車を停める。
7月26日。佐伯照生(池松壮亮)が自宅で目を覚ます。霧吹きで観葉植物に水を遣る。ベランダに出てラジオを点けると、音楽に合わせて腕だけで体操をする。でっぷりした猫のもんじゃに餌をやり、マスクを着けた照生が家を出る。近所の階段を降りた先の角に立つ地蔵に手を合わせる。抜け道にしている公園では、ベンチに腰掛ける男(永瀬正敏)に挨拶をする。未来から来る妻を待ってる。仕事場の劇場に到着。検温して記録する。上司の牧田(市川実和子)が日課の縄跳びをちょうど終えたところで、バテた彼女の指示を受けて作業に取りかかる。ダンスの公演。1席間隔で座るよう座席には人を描いたボードが設置されているが、満席だった。開演は3分押し。照生がピンスポットにスタンバイする。暗転。照生のライトに照らされたダンサーの姿がステージ中央に浮かび上がる。本日はご来場ありがとうございました。スタッフが観客に声をかけている。完パケです。誰もいなくなった劇場。舞台袖の照生は裸足になると、舞台で1人踊り始める。

 

野原葉(伊藤沙莉)はタクシー・ドライヴァー。新型コロナウィルス感染症の流行で、東京の夜の街を流しても、客はなかなかつかまらない。ある晩拾った客がトイレに寄って欲しいというので、高円寺駅の近くで停車した。劇場の前で、葉が音に誘われて中に向かうと、誰もいない舞台で、1人踊る男の姿があった。
7月26日。佐伯照生が朝目を覚ますと、いつものように、観葉植物に水を遣り、体操して、飼い猫に餌を与える。家を出ると、近くの地蔵に手を合わせ、近道するために公園を抜ける。ベンチには未来からの妻を待つ男(永瀬正敏)の姿があった。照生が劇場に到着する。牧田(市川実和子)とともに照明の仕事をしている。今晩はダンスの公演。1席間隔を空けているとは言え満席だった。公演が終了した誰もいない劇場で、照生が1人踊り出す。
7月26日。照生が朝目を覚ますと、いつものように、観葉植物に水を遣り、体操して、飼い猫に餌を与えようとする。猫が部屋の隅に入り込んで物を散らかしていた。猫をどかして片付けると、バレッタが目にとまる。

以下、全篇について触れる。
タイトルの『ちょっと思い出しただけ』という言葉には、思い出に対する未練と、それを振り払おうとする強がりとともに、何とか先へ進みたいという願望が籠められている。思い出に縋ることは良くないことだろうか。未練が残るほどの思い出があることは幸せなことではないだろうか、と訴えているようだ。
照生の住まいでの起床からのルーティーンが「モティーフ」として繰り返される(照生が手を合わせる地蔵は不変を象徴していよう)。この「モティーフ」からの変奏によって、変化が印象付けられる。とりわけ、ベッドに生まれた余白が、時を遡って埋まっていく倒叙によって、日々の掛け替えのなさが浮かび上がる。
Jim Jarmusch監督の映画『パターソン(Paterson)』では、Adam Driverがバスの運転手(a bus driver)を演じた。彼は決められた運行ルートを巡回する他、1日のルーティーンが決まっている。パターソンが照生に重ねられていることは、同作に出演した永瀬正敏の存在を介して間違いない。
照生が足を怪我した理由は明示されていない。照生の怪我は新型コロナウィルス感染症のメタファーであり、何かを挫折させる原因である。
タクシーの若い女性運転手が乗り合わせた客から映画女優になれないかと誘われる、Jim Jarmusch監督の映画『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991)の一場面が劇中で紹介され、葉の状況と重ね合わされる。(例えば元劇団員のような)演劇経験のあるタクシー運転手の男性と、ダンサーの女性という組み合わせの方が、実際に存在する確率は高そうだが、だからこそちょっとだけ現実からの浮遊感を生まれるのかもしれない。
葉がタクシーの仕事に愛着を感じているのは、どこかへ行きたい気持ちはあるけれどどこへ行っていいか分からないが、客の求める場所へと延延と向かうことができるからだという。

 ここで、われわれは、あらためて自覚することになろう。終わりの複数性、すなわち終わりを反復的に先送りして複数化することは、資本主義の根本的な特徴でもある、と。資本主義を定義する条件は、資本の無限蓄積であった。資本が無限に蓄積されるのは、最終的な充足が拒否され続けているからである。この場合、「終わり」に対応するのは、投資が回収されることである。資本主義を資本主義たらしめているのは、投資の回収(終わり)が、その度に、新たな投資(始まり)でもあり、決して、完全な終結には至らない、ということである。(大澤真幸『〈世界史〉の哲学 近代篇1 〈主体〉の誕生』講談社/2021年/p.162)

新型コロナウィルスの構造図そっくりの国際的スポーツイヴェントのエンブレムが黒いタクシーの車体に貼り付いている。東京の街に滞留するタクシーの車列は、ウィルスの蔓延を象徴するものとなっている。
今、映画で女性運転手(と煙草)といえば、映画『ドライブ・マイ・カー』(2021)。ちょっと思い出しただけ。
あるシーンでは、葉が言語が1つしかなければ誰とでもコミュニケーションがとれるからいいと言うのに対して、照生は言葉が分かっても必ずしも気持ちが伝わるとは限らないと返答する。気持ちをすぐに言葉(言の「葉」)に変換しようとする(そしてその「見返り」=返答が欲しい)葉に対し、ダンスという非言語でのコミュニケーションを模索してきた照生との対照が際立つ。そもそも2人の出会いは、照生が演劇にダンスを持ち込もうとして葉から芝居に合っていないと批判されたことだった。言葉表現と非言語表現の調和が隠されたテーマになっているようだ。フランス語の学習書が照生の部屋に置かれているのも、照生が葉と出会って、言語への関心を高めたことの1つの証左ではないか。
照生役の池松壮亮は、その周囲にややゆっくりとした時間を流れさせる力がある。
葉を演じた伊藤沙莉は、独特の声の魅力もあってタクシー運転手であることにほとんど違和を感じさせない。
照生に想いを寄せる後輩ダンサーの泉美を演じた河合優実が魅力を放っている。