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芸術鑑賞の備忘録

映画『哭悲 THE SADNESS』

映画『哭悲 THE SADNESS』を鑑賞しての備忘録
2021年製作の台湾映画。
100分。
監督・脚本・編集は、ロブ・ジャバズ(賈宥廷)。
撮影は、バイ・ジエリー(白傑立)。
美術は、リゥ・チンフー(劉晉輔)。 
衣装は、イー・ユークァン(余冠儀)。
音楽は、TZECHAR。
原題は、"哭悲"。

 

台北郊外、新北市。住宅や工場が密集する山間にあるアパートの1室。リャオ・チンチュー(朱軒洋)がベッドで目を覚ますと、隣に眠るツン・カイティン(雷嘉汭)の腹に腕を回す。カイティンも目を覚ます。おはよう。なんでいつも目覚ましの鳴る前に起きれるの? 君が僕を目覚めさせるんだ。ようやく鳴り始めたアラームをカイティンが止める。しばし抱き合った後、カイティンがベッドから起き上がり身支度を始める。午前中休めない? 無理よ。今朝は大事な打ち合わせがあるから。頼むから、起きて。それより来週の旅行だけど。何だって? 墾丁に行くでしょ。来週? 墾丁に行くって話したじゃない? クソ、やらかした。バリーに撮影を手伝って欲しいって頼まれたんだ。いつ? 来週。まだいつか分からないんだ。天候次第でさ。ドイツの広告会社で、かなりもらえるんだ。1週間の休みって簡単にとれないのよ。有給は年に10日だけだし、分かる? …ごめん。最近あんまり仕事のチャンスがなくてさ。最後に旅行したの、いつだっけ? 綺麗な空気の中でゆったり過ごしたいの。日焼けしたいし。日焼け? それなら屋上があるよ。カイティンは怒ってシャワーを浴びに行く。ごめん。俺が馬鹿だった。チンチューは浴室のドアの前でカイティンに語りかける。俺の客層は狭いから、とれる仕事はとっとかないと。バリーには話して都合をつけてもらうよ。それでいい? 昨晩の肉まん、昼飯に持って行くか? 食べちゃっていいよ。サンキュー。
冷蔵庫から取り出した肉まんにかぶりつき、チンチューはネットのニュース番組を見る。司会のウォーレン・リゥ(蔡昌憲)がウィルス学を専門とする台湾大学のウォン・チャンリャン博士(藍葦華)と回線を繋いでインタヴューしていた。博士、私は本当に理解したいんです。視聴者を代表してお尋ねします。なぜ博士や医学界はアルヴィン・ウィルスの危険を広めているのですか? OK、現況はこういうことです。たいていの人はアルヴィン・ウィルスは軽症のインフルエンザと同程度で、深刻なものではないと考えています。そうですね。しかし、専門家は極めて単純な理由でアルヴィン・ウィルスの変異可能性を恐れています。こちらをご覧下さい。アルヴィン・ウィルスの中には、極めて明白にリッサ・ウイルスに由来する休眠状態のプロテイン鎖が存在します。狂犬病を構成するのと同じ配列なのです。博士! 私は懸念しています。博士、話させて! いいえ、私は憂慮しています。もう話したでしょう! 私は耳にしました。現在まで死者はゼロなのに、なぜ恐怖戦術なのか。選挙の年にアルヴィン・ウィルスが偶然発生したのは極めて好都合なのだと思います。繰り返し強調しておきます。私たちの社会は突発的発生を深刻に受け止める必要があります。ウィルスを政治問題にするのは間違ってますよ! アルヴィン・ウィルスは公衆衛生にとって極めて深刻な脅威であり続けます。誰が総統かは関係ありません。
肉まんを食べ終えたチンチューが部屋を出ると、眼下の建物の屋上に白い服を纏った老人(周之民)の姿があった。不審に思ったチンチューが声を掛ける。おい、大丈夫か? チンチューを振り返った老人の腹には血がべっとりと付着している。丁度、カイティンが準備ができたか確認してきたので、老人を見たかと尋ねるが、振り返ると老人の姿は消えていた。チンチューはゴミをゴミ箱に入れるようカイティンに叱られる。隣室のリン・サン(邱彥翔)が部屋から出てきてチンチューに挨拶し、沢山並んだプランターの植物の手入れを始める。大丈夫ですか? 問題あるか? ただの風邪だよ。病院に行った方がいい。病院? 病院で待つのは止めた。医者は同じ事しか言わないだろ、家にいて休んでろって。言うだけなら俺でも医者になれる。ニュースの内容もさ、感染爆発だのウィルスだのって、噓ばっかりだよ。メディアを牛耳る底脳どもが株価を下げるのに大袈裟に触れ回ってる。安く買っといて景気が回復したら高く売るんだ。本当ですか? まあな、俺だって金持ってりゃそうするよ。とにかくさ、このバジルが増え過ぎちまった。後でやるよ。いいね。有り難う、リンさん。気にすんなよ。カイティンが出社するために部屋を出て来た。今何時、ほぼ8時30分。チンチューとカイティンはサンに挨拶して家を出る。
チンチューはカイティンを後ろの乗せてバイクを走らせる。カーブの続く道を降って大通りに出ると、警察車両が停まり、顔に血を浴びた男が警察官によってトランクリッドに押さえつけられていた。近くには半狂乱で泣き喚く女性と彼女を必死で取り押さえる人たち、そして救急車の傍のキャスター付き担架に載せられた遺体に掛けられた白いシーツは鮮血に染まっていた。衝撃的な光景に2人は目を奪われる。地下鉄の入口に到着。カイティンがバイクを降りてヘルメットを脱ぐ。あんな光景を見せてしまって悪かった。減速するべきじゃなかった。大丈夫よ。今晩、夕食を作るよ。本当、何を作ってくれるの? バジルを使ってね。気に入ってくれると思うよ。いいね。それじゃ、またね。カイティンはチンチューにキスをして立ち去る。
チンチューは帰宅途中で行きつけの食堂に立ち寄る。店主(蔡承邑)が鉄板で軽快に蛋餅を調理しながら、先客の女性から注文をとっている。豚肉の蛋餅を下さい。それから大きいサイズのミルクティー。豚肉の蛋餅に大のミルクティーね。店内か持ち帰りか? 店内で。あいよ。店主がチンチューに対応する。おはようさん。おはよう。いつもの? いや、もう食べたから、中のブラックコーヒーだけ。持ち帰りで。毎度。お嬢さんの注文が済んでからね。チンチューはコーヒーを待っている間、カウンターに置かれた台北市内の不動産のチラシを眺める。それに気づいた店主が説明する。感染爆発で不動産にも影響出てんだ。去年より安い。店内に、血の付いた白い服を纏った老人が姿を現した。チンチューが一瞬だけ目撃した、あの異様な老人だった。


 
軽症のインフルエンザと同等と目されているアルヴィン・ウィルス感染症が蔓延する台湾。新北市在住のリャオ・チンチュー(朱軒洋)とツン・カイティン(雷嘉汭)はいつものように朝を迎えた。チンチューが朝食を取りながら見たニュース番組では、ウォン・チャンリャン博士(藍葦華)がアルヴィン・ウィルスが変異の危険性について強く警告を発していた。チンチューが外に出ると、一瞬、近くの建物の屋上に、血の付いた白い服を着た老人(周之民)を見かける。風邪にかかっている隣室のリン・サン(邱彥翔)と挨拶を交わしたチンチューは、カイティンを最寄りの地下鉄駅までバイクで送る。途中、顔を血に染めた人物が警官に取り押さえられているのと、キャスター付き担架に載せられた血塗れの遺体を目撃する。駅でカイティンと別れたチンチューは行きつけの朝食店に立ち寄ると、朝見かけた異様な老人が店内に入ってきた。心配した客の一人が老人に近づくと、老人は彼に向かって突然吐瀉する。地下鉄のカイティンは、座席で本を読んでいると、隣に乗り合わせたサラリーマン(王自強)から何を読んでいるのかと話しかけられる。君とはいつも一緒になるなどと男がしつこく話し続けるので、カイティンが警察を呼ぶと告げると、男は憤然とする。そのとき突然、刃物を持った男が乗客を次々とナイフで切りつけ始め、車内は騒然となる。

冒頭は映画『パターソン(Paterson)』(2016)のような幸せなカップルの姿を映し出す(もっとも、『パターソン』も恋人に風変わりな食事を食べさせられるホラーと言えないこともない?)。
サラリーマン(王自強)が豹変するのは、映画『ジョーカー(Joker)』(2019)を彷彿とさせる。白いワイシャツが赤く染まることで変化が表現されている。
香港における逃亡犯条例をめぐるデモとそれへの当局の対応に加え、ロシアのウクライナ侵攻に関するニュースによって、台湾の人々に有事をまざまざとイメージさせているのではないか。新型コロナウィルス感染症のようなパンデミックを題材にしたゾンビ映画の体裁をとりながら、台湾海峡危機が発生した場合の惨劇を訴える作品でもあろう。
ゾンビ映画が変わらず隆盛を誇っているのは、やはり歩きスマホにゾンビの姿が容易に重ねられるからだろう。本作もまたその流れを汲んでいる。
チンチューの指の切断は、カイティンとの性交が不可能になることのあからさまメタファーになっている。
あの眼窩の使い方は何を象徴しているのか。