可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『不透明な視界 Invisible wall』

展覧会『第10回大学日本画展 名古屋芸術大学 日本画コース二人展「不透明な視界 Invisible wall」』を鑑賞しての備忘録
UNPEL GALLERYにて、2022年4月29日~5月15日。

磯部絢子6点、福本百恵5点、計11点の日本画で構成される二人展。両者の大画面作品の黒と赤とが会場に鮮烈なイメージを生んでいる。

磯部絢子《drops》(1800mm×5460mm)は、6枚のパネルを組合わせた漆黒の画面に、雨の景観を表わした作品。左端の中段よりやや低いから3枚のパネルにわたって画面中央向かい次第に幅を狭めながら青い水が広がる。入り組んでいるが、それが浜辺に打ち寄せる波であるかどうか、すなわち海岸や湖岸であるのか水溜まりであるのかは判然としない。地平線は右4枚のパネルの中央に姿を覗かせている。それより上の空間は濃灰色で、それより下の地はさらに白さの加わった灰色である。6枚のパネル全ての下部にも水を表わすと思しき白を中心とした広がりがある。これもまた水溜まりの表現であるのかどうか分明でない。そして、この白い水の手前には画面の中で一番暗い漆黒となっている。展覧会が「不透明な視界」と題されているように、掴み所の無い景観となっている。作品のタイトル「drops」が示す雨滴(雨)は、左からパネルごとに引かれている3本、2本、2本、2本、3本、3本の計15本の白い直線によって表わされている。そのうち10本は垂直に引かれている。その垂直線が基調のリズムを生む。そしてその垂線自体の長短(青い水か、灰色の地か、白い水か、漆黒の地のいずれにまで延びるのか)と、垂線の間に挟まれる5本の白い斜線とが画面に動きを生んでいる。雨は穀雨であり慈雨であるのか、泥濘を作りひいては水害をもたらす豪雨となるのか、闇として広がる虚空が答えることは無く、鑑賞者の想像に委ねられる。もっとも、青い水面の輝きは、明るい兆しを捉えるよう配されているように思われる。
磯部絢子《Day gone by》(1710mm×5460mm)は、画面の左上から右下への対角線の上側に枯れて項垂れる向日葵の群生を表わす。黒い画面は闇であり夏が過ぎたことを、白や茶の線は雨を表わす。掲示されている作家本人の解説によれば、スマートフォンの画面に向かう人々の姿を表したものだという。狭い地域に群生するその姿は、人口密度の高い島国と、皆が下を向いているのだからと安心する国民性とをよく表わしている。衰頽する国家のサーカスは、何もケンゴな負けない建築で行なわれるものでなくともよい。掌の上でサーカスは常に光り輝いている。

福本百恵《燦爛赫赫東西花鳥図》(1800mm×5460mm)は、6枚のパネルを組合わせた鮮紅の画面に、花鳥を表わした作品。左端のパネルの左下から右上に向かって伸びる太い木は、蔓状になってうねるように右へ向かう。2枚目のパネルにはイチゴ、3枚目のパネルには朝顔、3枚目から4枚目にかけては葡萄が絡まり、5枚目から6枚目の群生する赤、紫、ピンク、白の花々(ケシ? ビオラ? ペチュニア? ストック?)の中へと姿を消していく。木々や花々の中にはタイハクオウム、オニオオハシ、あるいはカワセミやツバメなどが、首を傾げたり鳴き叫んだりと剽軽な姿を見せる。一際目を引くのが画面右上で日輪のような金円(半円)に重ねられるクジャクの羽であり、それと画面左下で扇のように羽を広げるアカコンゴウインコとが対になっている。黄緑、青、ピンクなどで表わされる蔓が画面全体にわたって横方向に伸びているのは、二重螺旋構造のDNAを表わしたものであろう。多様で華やかな生命の世界を支えるのは、思いの外シンプルな4種の塩基の組み合わせであることを示すものである。全ては繋がり、そこに壁などは存在しない。
福本百恵《不透明な視界》(1710mm×1760mm)は、赤い画面に同じ色の絵の具でエンボスのように盛り上げて椿の木を表現し、その周囲に15羽の雀を配している。掲示されている作家本人の解説によれば、新型コロナウィルス感染症の蔓延を防ぐために距離をとらなければならなくなった人々の世界を描いているという。ゴージャスな絵画が、椿事に当たり「唾(ツバキ)を避ける」人々を表現していたとは、驚きである。