展覧会『O JUN + 森淳一「象印」』を鑑賞しての備忘録
ミヅマアートギャラリーにて、2022年12月7日~2023年1月19日。
「象る」彫刻家・森淳一と、「印す」画家・O JUNによる二人展。
O JUNの《暗黒ドライブ》(710mm×710mm)は、画面を上中下と三等分した真ん中に、底面に比して高さの低い潰れた円錐を横から眺めたような形の「山」を表わした絵画と、同型の「山」と旧型のアメリカの自動車を組み合わせた絵画とを表裏一体にした作品。「山」だけの絵では山に青の十字が描かれ、その交わる面だけ水色に塗られている。十字によって区画された「山」の表面は、左上に白味を帯びたオレンジ、右上に黒、右下に濃い灰色、左下に明るい灰色が配されている。他方の絵では、「山」は明るい灰色で表わされ、黒い波線と黄色い模様が入れられている。「山」の裾に接するように紫色とクリーム色のヴィンテージ・カー(シボレーのインパラ?)が配されている。
O JUNの《校章図》(710mm×710mm)には2つの山と山の端から覗く黄色い日、山の下に明るい灰色と白味を帯びたオレンジで橋梁のアーチ状の橋桁のようなものを、さらにその下に波を表わすような藍色の描線が擦れ気味に配されている。
O JUNの《印(しるし)え》(710mm×710mm)は、4つの異なる朱肉(?)の印章が画面中央に等間隔で横に並ぶように押され、印影の部分だけ白く塗り残してある作品。
《暗黒ドライブ》、《校章図》、《印(しるし)え》は、モティーフを象徴化したロゴマークに引き付け、あるいは直接印影を画面に導入することで、絵画が有している記念としての性格が浮上させられている。ロゴ、さらには文字にまで到ることで、描き残されたモティーフは鑑賞者の脳裡により鮮明に刻まれることになる。だが果たして絵画が果たすべき役割は、その画面から離れて、そのイメージを一人歩きさせることにあるのだろうか。イメージだけであれば容易にネット上で鑑賞できる現在、絵画がむしろ物質として存在し、その実物を鑑賞する意義を逆説的に浮かび上がらせている。
O JUNの《フルーツ》(727mm×606mm)は、緑、黄、青、赤などの大小の円を画面上いっぱいに表わした抽象的なイメージによる絵画。古い(古さを擬態した?)額縁に収められていることもあって、昭和の洋画といった印象を受ける。美術展のカタログではカットされてしまう額縁の存在が、鑑賞者の作品理解(受容)に大きな影響を与えていることを示唆するのであろう。
O JUNの《象(かた)え》(1700mm×1190mm×50mm)は、灰色と暗い緑色で描かれたスーツ姿の男性立像。モデルは正面を向きやや左向き。左手を腰に当て、右足を僅かに前に出している。主に幅のある筆を横や縦に走らせた線で表現され、短時間で一気に描き上げられた印象を受ける。グレーとヴィリジアンの組み合わせは、立像であることとも相俟って銅像を思わせる。旧ブリヂストン美術館のエドゥアール・マネ《自画像》を彷彿とさせるが、それは銅像として抽象化されているからだろうか。
離れた位置から見たときに灰色で塗り込めた画面にぼんやりと人物の影が浮かぶ、森淳一の《untitled(crevice)》(1475mm×1060mm)は、古い肖像写真に薄い石板を重ねて撮影された写真だという。モティーフとの間に挟まれた石板は時間であり、記憶が曖昧になっていく状況をこそ作品化したものだろう。デジタル化されたデータによっていつまでも記憶が残され、「忘れられる権利」が取り沙汰される昨今、芸術は、却って"memento"から離れていくのかもしれない。
台座代わりに樹皮がそのまま残された部分の自然との連なりからエミール・ガレの《ひとよ茸》を連想させなくもない、丸太の切断面から伸びた茸のような、森淳一の《F.O》(1815mm×340mm×370mm)は、空飛ぶ円盤を表わした一木造り。頂部の円盤、そこに向かい次第に細くなっていく支柱は幾何学的に単純化されたデザインである。実在のモティーフから想像上のそれへ。写真が誕生して此の方の絵画同様、3Dプリンターの発達によって彫刻も変容を迫られている現状の反映もあろうか。写さない、あるいは写せない存在が現前する面白みが彫刻の醍醐味の1つであることを訴えている。