可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 日比さつき個展『またあした』

展覧会『日比さつき個展「またあした」』を鑑賞しての備忘録
GALLERY b.TOKYOにて、2021年1月18日~23日。

日比さつきの絵画展。

野菜や果物を描いた静物画が並ぶ。だがサツマイモからは芽が生えて(《サツマイモ》)、柿は黒ずみ(《黒ずむ柿》)、牛乳にはカビが生えている(《黴た牛乳》)。「ヴァニタス」としての性格が色濃い。
冒頭に掲げられた《縮む洋梨》では、テーブルの上に白い布が敷かれて、その上に洋梨やレモンやみかんなどが置かれている。洋梨は茶色く変色して形が崩れている。布はたわみ波打ち、果物の間を遮っている。また、手前の部分は布がめくれて茶色いテーブルの天板が見えている。そこにプチトマトが転がっている。(一般的に想定される静物画に比してかなり大きな画面を持ち、画面右手には白い布に覆われた籠あるいは箱が立ちはだかる)《黒ずむ林檎》など他の作品でも、乱雑な白い布が蔬菜の間に作る「壁」が印象的だ。新型コロナウィルス感染症が猖獗を極める中では、白い布が「衛生」を象徴しているように思われる。衛生的な取り組みが人々を分断し、あるいは隔離する。痛んでいく果物や野菜は、孤立したまま衰弱していく人々の姿に思えるのだ。

 西洋美術の歴史のなかで、静物画は長らく最も低級な画題とされてきた。物を描いた絵の起源は、古代ギリシャ・ローマ時代に室内の壁面装飾として、あたかもそこにあるかのように、本物そっくりに描かれた器物や果物の絵だと言われている。プリニウスの『博物誌』などの古代の著作によれば、こうした事物の絵は、その精緻な再現描写によって人気を博し、評価も得ていたらしい。しかしそれらは、生活に密着した卑近な品々をモティーフとしていたことに加えて、その克明な再現描写が評価をよぶと同時に単なる職人技として低く見積もられる両義性をはらんでいたことから、神々や英雄の模範的行為や偉業を描いた絵画に決して肩を並べることはできなかった。
 こうして古代に物の絵にあたえられた低い位置づけは、17世紀半ばのオランダで、それまで「果物の絵」「魚の絵」といったぐあいに描かれた物の名称で特定されていた事物の絵をひとくくりにするstil leven(「動かざる生命」の意)の語が生まれ、静物画がジャンルとして確立してからも、変わることはなかった。17世紀以降の各国の美術アカデミにおいて、静物画は、事物を描く歴史画、肖像画、動くものを描く風景画に劣る底辺にすえられた。つまり、立ち返るべき規範を古代と、古代の最もよき理解者であるルネサンスに求めるアカデミーの人間中心主義的な価値観のなかで、静物画は規範での位置づけをそのままに受け継ぎ、制度化されていったのである。この序列は、骸骨によって生のはかなさを表すヴァニタス画に見られるように、事物に教訓的・寓意的な意味の伝達を託すことによって、静物画の格上げを図る努力がなされても、決して覆ることなく、19世紀半ばにいたるまで厳然と存在しつづけた。この事態は、精神的な存在としての人間を世界の中心にすえる人文主義的な世界観のなかでは、結局のところ、事物は人間に従属するものにしかなりえなかった、と言いかえてもよいかもしれない。
 けれども、産業革命を経て工業化が進められ、人間の制御を越えて機械的に量産される膨大な規格品が身のまわりを覆いつくすにいたって、もはや人は世界の中心たりえなくなった。それまで人と物の間に結ばれてきた主と従の関係も揺らぎ、それを受けて、物の絵として貶められてきた静物画の立場にも変化が生じてくる。古代以来、脇役にしかなりえなかった静物画は、20世紀をむかえて初めて、物との新たな関係のもとに表現の革新をこころみた芸術家たちの手によって、表舞台に引き出されることになったのである。(略)

 手近な物を並べて意のままに配置を決められる静物画は、ルネサンス以降、画家たちが対象の形態と量感の把握という基礎的な課題をクリアするうえで、格好の学習材料とされてきたが、そのことは同時に、静物画はより複雑な人物群像の構成力を磨くためのステップにすぎないという見方を助長することにもなった。しかし、こうした静物画の半ば否定的な特性は、19世紀末にセザンヌによって肯定的にとらえ直され、それを受けた20世紀の画家たちは、窓としての額の向こうに三次元空間を描出するルネサンス以来の再現的な絵画表現から脱し、三次元の事物の形態や構造を二次元の絵画ならではのとらえ方で描きだそうとする造形的実験のなかで、静物画に無尽蔵の可能性を見いだすことになる。
 セザンヌは、対象の本質的な構造と形態の抽出を可能にしてくれる媒体として、瓶や果物などの事物に真摯なまなざしをそそぐうちに、それらの形態を複数の視点からとらえると同時に、量感や奥行きを明暗のトーンではなく色のコントラストのみに頼って描出するようになりう、結果的に遠近法的な空間から逸脱することになった。(宮島綾子「物を描く―静物画の革命」国立新美術館編『20世紀美術探検―アーティストたちの三つの冒険物語―』国立新美術館/2007年/p.26)