可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 酒井みのり個展『色々に押し包まれた心身』

展覧会『酒井みのり展「色々に押し包まれた心身」』を鑑賞しての備忘録
藍画廊にて、2021年12月13日~18日。

版画(木版画リトグラフ)、鉛筆画、水彩画などで構成される、酒井みのりの個展。

《みず色の洗濯ネット》(600mm×1200mm)は、横長の画面一杯に円柱(円筒)型の洗濯ネットを描いた木版画。漆黒の画面の右側に(描かれてはいないがジッパーがあるであろう)底面の円が、そこから左側に伸びる歪な形の側面が、白(インクが載せられていない部分)で表されている。ラグのような大物洗い用であろうか。網の目が粗く、網を構成する繊維が太い。不格好ながら存在感のある洗濯ネットである。そこで《みず色の洗濯ネット》というタイトルに着目しないわけにはいかない。モノクロームで表された「洗濯ネット」には「みず色の」という限定が付されているのだ。ここで、高松次郎の作品である、白い紙に「この七つの文字」と活字然と表記したリトグラフ作品《日本語の文字》を思い浮かべてみたい(因みに、《LOOKチョコレート》と題した鉛筆画には、四角錐の上半分を切り落としたような形のブロックの上面にそれぞれL, O, O, Kが表され、活字を連想させる)。

「言葉」は高松にとって、事物にべたべたと貼り付いてその「真の全体性」を覆い隠しながら、自分がさも事物全体を表すかのようなふりをする、やっかいなものでした。そこで高松は、言葉が取り付くべき事物を、その言葉自身にすりかえてしまいます。言葉に取り付いた言葉は、こうして自分自身以外のもの指すことのない、事物としての自己同一性(つまり「真の全体性」)を獲得します。この時言葉は初めて、コップや花瓶やテーブルのふりをするのをやめ、それ自身が持つ形や色、質感といったものとして見えるようになるのです。(東京国立近代美術館編『高松次郎ミステリーズ』東京国立近代美術館/2014年/p.192〔蔵屋美香執筆〕)

高松次郎の作品では、「この七つの文字」というシニフィアン(signifiant)(≒文字)が、「この七つの文字」というシニフィエ(signifié)(≒意味)と一致する例外的な事例を取り上げることで、言語の原則的(本来的)な恣意性を明るみに出す。酒井みのりは、白と黒との洗濯ネットのイメージに「みず色の洗濯ネット」とズレた言葉を充てることで、やはり言語の恣意性を浮上させている。翻って、本作品に表された洗濯ネットと、そのモティーフとなった洗濯ネットの実物とは、シニフィアンシニフィエとの関係とパラレルである。そして、洗濯ネットのイメージは、衣類=洗濯物が象徴する対象そのものではなく、その対象(衣類=洗濯物)を中に含みながらもそれとは全く異なるもの(洗濯ネット)であり、そのような外観(look)こそが絵画表現であると訴えているようだ。

《白いアミアミに包まれたリンゴ》(600mm×900mm)は、横長の画面にフルーツ・キャップ(ネット・キャップ)を被せた果物を描いた木版画。作者がタイトルに用いた「白いアミアミ」という言葉は、果物を保護する梱包材を的確に捉えており、「フルーツ・キャップ(ネット・キャップ)」と同等かそれ以上に鑑賞者にイメージを思い描かせる。他方、漆黒を背景にした「リンゴ」はやたら白い。しかもリンゴを表現する際に用いられる「お約束」の果梗や萼窪が表されていない(因みに、西川由里子は、「のっぺらの実」と題した個展(2021)において、果物の種類を特定できる限界のイメージを追究していた)。本作品においても、タイトルとイメージとの間に意図的な懸隔があると言えよう。

《10タバのそうめん》(600mm×900mm)は、横長の画面に2段5列の素麺の束を表した木版画。漆黒を背景に、斜め上から捉えた素麺の束の断面は、それぞれ円形を成し、社葬など大規模な葬儀会場に立ち並ぶ花輪のようだ。素麺の切断面は世界の切り分けを、素麺の束は文節ないし句のような単位を、その列は詩行、そして反復法を、というように、容易に言葉や詩句を連想させる。「十把一絡げ」の大雑把な世界の把握とすれば、「洗濯ネット」としての絵画表現(世界把握)そのもののメタファーと捉えることもできるだろう。

《みかんの白いやつ》(600mm×900mm)は、緑色の地に赤と白(インクが載らない部分)とで、果皮を剝いた蜜柑を表した版画作品(木板+リトグラフ)。緑と赤という補色の組み合わせと、支持体の白の明るさとは鮮烈で、モノクロームの作品群の中で異彩を放つ。「みかんの白いやつ」である中果皮、瓤嚢膜、維管束、果心のうち、画面に白く表されているのは瓤嚢膜と果心で、瓤嚢膜に付着した中果皮や維管束はそれぞれ赤や緑(地の色)で表現されている。とりわけ瓤嚢膜上の中果皮のざらっとした手触りを感じさせる赤い点の集合は蜜柑という対象を確実に摑み取り放すことがなく、「白いやつ」とイメージ(赤)の齟齬を捩じ伏せる力業を発揮している。だが、その実、緑の地の部分こそ「みかんの白いやつ」を精密に描写している(画像の色を反転させて見ると明白になる)。版画作品の持つ「反転」という性質が表現を下支えしているのだ。

《おでんのだいこん》(600mm×900mm)は、緑を背景に青で大根の断面を表した版画作品(木版+リトグラフ)。画面一杯に表された扁平な円の中心から放射状に伸びる線が、大根の切断面を表現している。それにしても、(白色の大根ではなく)敢て「おでんのだいこん」とおでんつゆの染みたイメージをタイトルで呼び起こしながら、青い大根を表現するという大胆さ。本作品においても言語の恣意性が突きつけられている。だが、本作品の色を反転させて見ると、そこにはおでんつゆの染みた大根を髣髴とさせる(紫の地に)オレンジの大根が現れるのだ。