可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会『まなざしのむこう 東京藝術大学日本画第二研究室六人展』

展覧会『第21回 大学日本画展 東京藝術大学日本画第二研究室六人展 まなざしのむこう』を鑑賞しての備忘録

東京藝術大学大学院美術研究科・日本画第二研究室出身の澤﨑華子、古山結、角谷紀章、小田川史弥、張騫、宇野七穂の6名の作家を紹介する企画。

小田川史弥の作品について
《月が眩しい》(1400mm×1620mm)は、川縁で月に背を向けて立つ男の姿を描く作品。川面はピンク色に明るく輝き、そこに揺れる黄色い月影――周囲の明るさからすると満月であり、その形から真夜中に南中しているのだろう――は、右手で顔を覆いながら立つ群青で表わされた男によって2つに断ち切られ、恰も目玉焼きの半熟卵にナイフを突き入れ溶け出したように、揺れている。草生した対岸の暗緑色に対し、男の立つ此岸はモスグリーンを基調とし、川面のピンクと対照を成している。男の周囲には、後ろ姿の犬、正面を向く羊、川面を滑る横向きの水鳥が、それぞれ別の3方へ向いている。水面に映る月を描くエドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)を連想させるせいもあろうが、月が女性を表わすなら、月に背を向け顔を隠す男は女性恐怖の象徴なのかもしれない。あるいは、男性によって断ち割られた月(の映像)は破瓜のメタファーであろうか。いずれにせよ、真夜中、眠れず彷徨する――羊と同系色で一体的に表現される草叢は岸辺の草とは眠りの世界だろう――男は、状況に身を委ねること――下流に向かって泳ぐ水鳥――も、流れに逆らうこと――水鳥の反対方向に川岸を歩く犬――も選択することができず立ち尽くしている。交叉する腕と伸びやかな脚の表現が印象的な《水面を走る》(242mm×333mm)の人物と併せ見ると面白い。
《言葉にならない》(530mm×455mm)は、夜空の下の水辺の人物を描く作品。赤紫の星空の下には煌々と輝く月(画面には見えない)に照らされた木立が浮かび上がり、その辺りの水面は明るい。月光の当たらない木立の拡がる画面手前に向かって川が流れ、水鳥たちが音も無く川下へ向かう。水面と同じ紫色で表わされた人物は川に溶けるように表わされ、右手の人差指を顔の前に持っていき、静かにするよう誰かに訴えかけている。流されるままとは、動かされる(moved)ままであり、すなわち感動を表わすのである。流れは波であり音であり音楽である。言葉として断ち切っては味わうことができない。
《森の中を歩く》(530mm×455mm)は、ピンク色の池(?)を背に、キャップを被った少年(?)の姿を描く。草の茂る対岸に対し、少年のいる地面は描かれていない。「森の中」であることは、少年の姿が木洩れ日を浴びていることが迷彩を施したように表現されていることと、右手に除く木の幹とから分かる。
提喩的・換喩的表現により、言葉にならない世界を探求している。

角谷紀章の作品について
《宵の街》(1620mm×1303mm)は夜の交差点で、信号が青に代わり、歩行者が横断歩道を渡りだしたところを描いた作品。画面手前側から横断歩道の白線が縞模様となって奥へと続いていく。後ろ向きの人物達は幽鬼のように夜の街に溶けている。反対側からこちら(画面手前)側に向かってくる人たちは未だ遠くでより判然としない。近くに聳えるビルの屋外広告は煌々と輝き、街は光に包まれた部分と光の無い暗い闇とに茫漠として分かれる。画面の端には、電柱(ないし信号機の柱)の蔭から赤い信号の光が覗く。画面の奥に描かれる闇に向かって知らず知らず流され行く人々に警告を発しているのだろうか。たっぷりと水を含ませた筆によって、湿度の高い曖昧な国の姿が描き出されている。
《Night》(910mm×910mm)は、傘を差して歩く3人の人影が白っぽい画面に模糊として描き出されている。白い街を行く黒い人物は、恰もネガのようである。明るい夜の街は、反転した世界であることに気付かされる。