可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 森戸一惠個展『Swan Maidens』

展覧会『森戸一惠個展「Swan Maidens」』を鑑賞しての備忘録
MEDEL GALLERY SHUにて、2024年1月9日~21日。

森戸一惠の絵画展。

《アニムスとアニマ》(910mm×727mm)は、白い画面に赤紫やオレンジ、茶などで、寝そべる人物2人を画面の上部と下部とにそれぞれ表わした作品。上側の人物は、右上の角の頭髪からほぼ真っ直ぐに身体が描かれ画面中段左端の脚(太腿?)で画面から切れるように配される。大掴みに表わす伸びやかな線が、絵筆の動きを伝え心地よい。目、鼻、耳が単純な線によって表わされる他、腹の方に曲げた左腕の先に指もしっかりと表現されている。やや持ち上げられた顔や胴が作る影もくすんだ薄紫で描かれている。画面左下角にに横長の楕円状に顔を表わされたもう1人の人物は、右腕で頰杖をつくようにしてやや体を屈曲させ、腰の辺りが画面下端で切れている。身体の配置から顔であることは分かるが、目鼻などはより抽象化されている。タイトルから、カール・ユング(Carl Jung)による、男性の無意識の女性的な側面「アニマ」と、女性の無意識の男性的な側面「アニムス」とを主題とした作品である。寝そべっているのは、擬人化された無意識の性格の潜在性を、大掴みな表現による抽象化は、元型として備わっている根源性を表現するものであろう。
《Swan maidens》(960mm×1167mm)は、夕闇のような赤紫を背景に、水面に浮かぶ白鳥を描いた作品。水面に映る姿を描くとともに、描き直す前の輪郭らしき線が残されたままにされることで、動きが表現されている。隣に並べられた《白鳥の乙女》(318mm×410mm)には白鳥を抱き寄せる人物が描かれており、「白鳥の乙女(Swan maiden)」が異類婚姻譚であることが明確にされている。すなわち《Swan maidens》は白鳥が人の姿に変わることが示唆されているのである。《変身》(606mm×727mm)では白鳥が羽を脱いで人の姿になった場面であるとも、人と白鳥との交わりが描かれているとも解される。興味深いのは、「白鳥の乙女(Swan maiden)」のシリーズの中に、森の中を歩いて行く人々の姿を描いた《群衆》(320mm×820mm)が挿まれていることである。「白鳥の乙女(Swan maiden)」のヨーロッパの昔話としての性質を取り上げているとも考えられるが、むしろ、白鳥と交わる男を1人でなく複数として描いているのは、同型の異類婚姻譚が世界的に見られることを示しているのかもしれない。物語の根源的性格がテーマなのだろう。

作家の描く略画的とも言えるほど抽象化された人物において、手の表現は比較的丁寧に描き込まれている(とりわけ、《ペルソナのポートレート》(530mm×455mm))。これは触覚に対する関心の反映であり、タッチパネルの映像の時代を象徴していると言えないだろうか。

 タッチパネルの映像は触ることができる。そして触ると変化する。このような「触知可能で操作可能な映像」の出現は、じつは、いままでの映像論とメディア論を、さらにはそれらを支える伝統的なパラダイムを大きく揺るがしかねないものでもある。古くはプラトンの洞窟の比喩まで遡るように、西洋の哲学は伝統的に、影と実体、「にせもの」と「ほんもの」、あるいは「見えるもの」と「見えないもの」の対立を中心に思考を組み立ててきた。眼や耳で触知可能な世界はしょせんは影で「にせもの」にすぎず、感覚から隠れたところに、つまりは知覚できない世界にこそ実体があり「ほんもの」があるのだという発想が、哲学の中心にあり続けてきた。
 (略)そのような二項対立は、20世紀の精神分析や映画論も受け継がれている。映画の素クリ0ンに投影される映像(見えるもの)は触ることができない。それは影であり「にせもの」にすぎない。影は触ることができないし、操作もできない。だから学問は、影に囚われるのではなく、影をつくり出すカメラ(見えないもの)のほうに向かわなければならない。精神分析の言葉でいえば、想像界ではなく象徴界に向かわなければならない。それは、20世紀にいたっても、人文知を支える根本的な二項対立のままだった。
 ところが、タッチパネルの映像、つまり「触知可能で操作可能な」影の出現は、まさにそのような二項対立を脅かしている。そこでは、「にせもの」が「にせもの」のまま触られ、操作され、「ほんもの」を変化させてしまうのだからだ。(東浩紀『観光客の哲学 増補版』ゲンロン/2023/p.366-367)

人間の根源的性格と現在の社会の特質とに関する関心が見出される作品群である。