可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

展覧会 末松由華利個展『山も海も砂も雪も、私たちも』

展覧会『末松由華利展 山も海も砂も雪も、私たちも』を鑑賞しての備忘録
新宿髙島屋10階美術画廊にて、2023年9月27日~10月9日。

末松由華利の絵画展。
ティーフを形作る色は滲み、あるいは垂れて、別のモティーフへと移ろう。「山も海も砂も雪も、私たちも」緩やかに繋がっていく。
輪郭線が対象を切り出すものなら、輪郭線で囲われたモティーフは言葉のアナロジーとなる。輪郭線を描かないことで、言葉に囚われないイメージが追求されているのかもしれない。

ギャラリー外の展示ケースには2点の作品が並ぶ。《たけなわ》には、黄緑の円の中に緑の円の光琳菊のようなモティーフが画面を覆っている。画面の下部から画面の上部へ向かってモティーフの大から小へ、疎から密へと、一面の花畑がどこまでも広がっていく。因みに、植物の力強さを表現した関連作品として、躑躅のような赤い花の盛りの燃え立つような勢いを描き出した《訳もなく》がある。
《たけなわ》の隣に並ぶ《季節寿ぐ》には朝焼けの湿原か、青い草叢と淡い桃色の水面として表わされる。ミクロとマクロ、仰視と俯瞰、緑とピンクと対照を成しつつ、かつ柔らかな印象により調和が取れている。
「準える」シリーズ3点(《準える 01~03》)は、画面下部から画面上部へ向かい、それぞれ藍、青、紫の帯が幅を狭めて波の連なりを表わす。水をたっぷり含んだ絵具でぼやける画面でスタイルはかなり異なるものの、福田平八郎の《漣》に通じるテーマの作品群である。画面上部(とりわけ《準える 01》)では水面の揺蕩いが表わされ、変化の兆しが示される。
変化の予兆への注目は、とりわけ《設える時 14》で美しく表現されている。日の没する間際、紫が空を染めるが、水平線附近には夕陽の名残のオレンジが残っている。そして、画面最下段の地平線近くに僅かに表わされた影の中に、街の灯が星に先んじて点じ始める。
《たけなわ》や「準える」シリーズの奥行きに対する関心は、《反照》にも見られる。縦のオレンジの線と横の青の線による格子で構成された画面は、手前に幅広で淡い色を配し、奥に細く濃い色を配することで画面の中に拡がる空間を覗き込んでいるような感覚を味わわせてくれる。
《今日もそこにいるはず》では、空色のペンキで塗ったような青空に湧き出したソフトクリームのような入道雲を背景に、樅の木であろうか、強い陽射しに黄緑に輝く葉を茂らせた1本の巨木が表わされる。何より眼を惹くのは、葉(樹)が溶け出すように黄緑色の絵の具が滴り落ちていること。暑さのあまり、樹木もまたアイスクリームのように溶け出してしまったのだろう。暑いのは人も樹も同じなのだ。だが巨樹は何も言わずにそこに立ち続ける。入道雲は雨の到来が近いことを告げる。降り出した雨は、樹木を生き返らせるだろう。人もまた雨の恵みで生きる。人も樹も雲も、水を介して全ては繋がっている。
《一つになる》は、氷山に囲まれた湖の景であろうか。朝焼けの空のオレンジから淡い青へのグラデーションを水鏡が映し出している。天と地とが一致している。
ところで、作家は、《輪郭は内側から決まるのか、外側から溶けるのか》を始め、輪郭線を描かずにモティーフを描く試みを重ねている。輪郭線が対象を切り出すものなら、輪郭線で囲われたモティーフは言葉のアナロジーとなる。輪郭線も言葉も、世界を理解するために切り分ける手段であるという点で等しい。だが解剖したカエルをどんなに正確に縫合しても生き返ることはないように、分析によって失われてしまう何かがある。そのため、いかにして世界を切り分けずに描き出すかに腐心しているのだろう。滲み、滴り、重なりによって、モティーフの切断を可及的に回避しているのだ。それはある言葉を一義的に用いること無く、その言葉の意味の広がりに期待する、詩作に通じると言えまいか。
表題作《山も海も砂も雪も、私たちも》が描くのは、樹木の立ち並ぶ島が水面に映る景観である。モティーフだけでなく、滲み、滴り、重なりなど、他の作品にも見られる描法が織り込まれた大画面(1300mm×3240mm)である。立ち並ぶ樹木は人であり、降り注ぐ光は言葉ではないか。アルノルト・ベックリン(Arnold Böcklin)の厭世的な《死の島(Die Toteninsel)》の向こうを張った、世界を繋ぎ合わせる「詩の島」である。