展覧会『新しき村 創設105年 理想社会実践の歩み』を鑑賞しての備忘録
調布市武者小路実篤記念館にて、2023年9月2日~10月9日。
理想社会の実現を目指して武者小路実篤が創設した「新しき村」の歩みを、1918年に篤が『白樺』誌に発表した理想社会の構想「新しい生活に入る道」から、2023年の「新しき村」の現況を伝える新聞記事までを通じて、紹介する企画。
大正の時代精神は「改造」への意欲であった。そして、それをになったのは新興する「中流」家庭の息子と娘たちであった。
彼らはみな「コミューン」について考えた。ある者は夢想的であった。ある者は冷静で、ある者は皮肉であった。コミューンの建設と維持が現実にそぐわないと見とおす者は少なくなかったが、最初からこれをばかにした者はいなかった。その背景には社会主義への希望がたしかに横たわっていた。(関川夏央『白樺たちの大正』文藝春秋〔文春文庫〕/2005/p.229)
「文学を志したのと、新しい世界を生み出したいと思ったのはほぼ同時」であり「自分の双生児であると自伝的小説『或る男』に記す武者小路実篤は、ロシアでロマノフ朝が倒れ、革命が進行中の1918(大正7)年、「文明の利器を生かす理想」を掲げ、「新しき村」の建設を構想する(「新しい生活に入る道(一・二)」『白樺』大正7年5・6月号)。堺利彦は『中央公論』(大正7年6月号)に寄せた「『新しき村』の批評」において「現実認識の甘い空想的改良主義」とこき下ろした。
「あなたや同志の諸君が合理的な生活を深く望まれる結果、あなた方の実際生活を改造しようと企てられたに付いて」「私にも少し云わせていただきたいと思います」
このように書き出された「武者小路兄へ」という原稿を有島武郎は大正7年6月20日に書き終え、「中央公論」7月号に載せた。武者小路実篤が「新らしい生活に入る道」という一文を発表したのは「白樺」の大正7年5月号である。その半年後に実篤は「新しき村」の建設地を日向の山奥に決めたのだが、これは実篤の意思表明に対するもっとも早い反応で、このとき有島武郎は四十歳だった。
オーエンやサン・シモンが出現してから100年余りの時日が過ぎた。日本が資本制度に移ったのは50年前のことだが、欧州で十分に発達してすでに老いかけた制度を輸入したのだから、その弊害も僅々50年ですっかりあらわになった、と有島武郎は書き、さらにつぎのようにつづけた。
「あなたも私も割合に安固な衣食住を保障されている家に生れて来ています。それだのに、この人から羨まれるべき生活の中にも、私達は絶えず疾ましい思いをして生活していなければならないのです。第一私達は都合のいい境遇に生い立ったという点から私達自身の才能をすら割引きして考えなければならないのです。公然とこれは自分が自分の力で造り上げた才能だぞと云い切る事が出来ないような立場にいます」
有島武郎は自分が「第三階級」(中流階層)であることを恥じている。少なくとも、もどかしく感じている。同時に「第四階級」(プロレタリア階層)に対する同情の念を吐露している。
(略)
「議会は民意を代表せず金意を代表しています社会は――人が集って出来上るべき筈の社界は――金が集って出来上がっています。戦争と平和は結局資本家という少数者の手によって勝手に左右されています」
「今の制度の下では資本主も労働者も共に金に支配されている点に変りはありません。資本主は金を集める為めにその力量の全部を集注し、労働者は力量の全部を提供して、生活を支えるだけの金を得ようとしています。人類全体がこういう風に金の締め木にかけられて、藻掻き苦しまねばならぬという事は悲惨極る事です」
有島武郎は、武者小路実篤がコミューン設立計画にかりたてられた気持を尊いと思うといい、他人の企てに対して皮肉な見方をせずにはいられない傍観者をはしたないと思うともいった。そして、科学力で自然を征服しようと試みる一九世紀文化は、すでにその功績とともに弱点を露呈しつつあり、これを補う力は芸術のみにあるはずだと説いた。
「私は殊に芸術家なるあなたがこの企てに走られた事を愉快に思うものです。私一箇の見解によれば、今の時代にあっては、芸術家は謳歌者であるよりも改革者である事を余儀なくされると思うからです」(関川夏央『白樺たちの大正』文藝春秋〔文春文庫〕/2005/p.240-243)
「新しき村」は村の趣旨に賛同する篤志家からの寄付や武者小路実篤の原稿収入などによって支えられた。後には養鶏、椎茸や茶の栽培などで経済的自立を模索する。実篤は「自活だけが唯一の道では思いません」との思いも吐露する(1932年の上田慶之助宛書簡)。有島武郎が言うところの「金の締め木にかけられて、藻掻き苦しまねばならぬ」事態を打開すべく構想された開村精神を損なわないよう腐心したのだ。
実篤の目標は村の経済的自立であり、理想は芸術活動と労働の共存共立であった。そのためには水田をつくって食糧自給体制を整え、「義務労働」の時間を短縮したい。実篤の胸裡にはクロポトキン的な工業型コミューン、あるいは英国における「田園都市」のイメージが育ち、水力発電の発想へとつながったのである。(関川夏央『白樺たちの大正』文藝春秋〔文春文庫〕/2005/p.328)
村に農業と水力発電のための水路が建設されることになり、有島武郎は志賀直哉と編者となって『現代三十三人集』を出版して、その印税で支援を行った。水路は1923年に開通した。
19世紀文化の弱点を補う力は芸術のみにあるという有島武郎の言葉通り、「新しき村」では村民たちが余暇に芸術活動に勤しんだ。その成果としての絵画や焼き物が多数紹介されている。
コミューンは19世紀前半のアメリカで盛んに試みられ、合計100ヵ所以上におよんだとされる。ロバート・オーエンはもともとスコットランドの紡績工場主であった。彼はその工場を生活共同体化しようとして、ある程度成功した。さらに本格的な共同体を建設するためにアメリカに渡り、インディアナ州に広大な土地を手に入れて平等村を建設したのは1825年であった。しかし平等村が3年後に解散のやむなきに至ったのは、900人もの村人のなかには寄生者が少なくなく、労働と配分の平等が維持できないからであった。
フーリエの影響下に1841年に建設されたボストン郊外のコミューンも短命であったが、それは芸術家ばかりが集まって生産性がきわめて低かったためであった。結局、アーミッシュのような強烈な宗教的背景を持たなくては、平等な共同体には原理として不平等がひそんでいるという矛盾がある以上、永続は望みにくかったのである。(関川夏央『白樺たちの大正』文藝春秋〔文春文庫〕/2005/p.284)
105年経った今、宮崎と埼玉でそれぞれ3人の村民が実篤の志を継いでいるという。
武者小路実篤のコミューンへの傾斜はトルストイからはじまった。その根源には労働と芸術の調和への希求があった。勘解由小路資承は実篤の母秋子の弟であり、後年志賀直哉と再婚する康子の父である。その資承が時牛尾を廃して三浦半島金田に隠棲し、農業自給生活を営んだときの共同の暮らしのたのしさの記憶が、実篤を「新しき村」へと駆り立てた直接の力であった。
彼はロシア革命に対しては当初同情的であったが、その暴力性に次第に懐疑的になった。「共産主義」という言葉を「新しき村」の形容としては徹底して避け、「兄弟主義」と自称したのは、警察に対する配慮というより、むしろ実篤の本質のもたらすところであった。(関川夏央『白樺たちの大正』文藝春秋〔文春文庫〕/2005/p.285)
因みに『時事新報』(大正7年5月20日)が日光の山奥にヤースナヤ・ポリャーナを建設するとの記事が出た際、実篤はトルストイアンではないと反論している(『時事新報』大正7年5月25日)。
白樺派より時代は遡るが、徳冨蘆花は『戦争と平和』に感動してトルストイを訪ねた。亀山郁夫の新訳で『カラマーゾフの兄弟』が脚光を浴びもしたが、第二次大戦中のソ連の対日参戦、冷戦(米ソ対立)と社会主義体制の崩壊、そして2022年のウクライナ侵攻によって、ロシアは隣にありながら実篤の時代よりも遠く隔たってしまっている。