可能性 ある 島 の

芸術鑑賞の備忘録

本 スタインベック『怒りの葡萄』

ジョン・スタインベック怒りの葡萄〔新訳版〕上・下』〔ハヤカワepi文庫epi80・81〕早川書房(2014)を読了しての備忘録
John Steinbeck, 1939, "The Grape of Wrath"
黒原敏行訳

殺人罪で収監されていたトム・ジョードが仮釈放になり4年ぶりに故郷に戻ってきた。途中、元説教師のケイシーに出会い、ともに実家に向かう。ところが地元の農場には人影がない。実家も崩れて空き家になっていたが、なぜか建物の際にまで綿が植えられていた。昔なじみのミューリー・グレイヴズが通りかかり、事情を説明する。砂埃で不作になった農地が会社に買い占められて、トラクターによる大規模経営が行われるようになり、小作人は皆追い払われてしまったのだ。トムは、一家が身を寄せているジョン伯父の家で、家族との再会を果たす。家畜や家財道具を買いたたかれ手に入れた僅かな金で中古のトラックを買い、三世代のジョード一家とケイシーの総勢13名が、豊かなカリフォルニアの地での再起をかけ故郷を後にする。

小説の冒頭、砂嵐の猛威が描写される。

 夜は明けたが、朝らしい朝は来なかった。灰色の空に赤い太陽が現れたが、早くも黄昏時になったかのように、暗赤色の円は光をほとんど出さなかった。時間がたつにつれて、薄明るい光はきえて闇が戻ってきた。風は倒れたトウモロコシの上を吹き過ぎながら悲鳴をあげ、すすり泣いた。
 人々は家の中で身を縮め、外に出るときはハンカチで鼻と口をおおってうしろで結び、目を守るためにゴーグル(防塵眼鏡)をかけた。
 ふたたぶ訪れた夜は暗黒の夜だった。星の光は空中に漂う砂埃を突き通せず、窓の灯は自宅の庭より外へひろがれないからだった。いまや砂埃は空気とむらなく混ざり、塵と空気の乳濁液になった。家の戸や窓は閉ざされ、すきまに布がはさみこまれたが、ごく細かな砂埃は入りこんできて、空気中には見えないが、椅子やテーブルや食器の上に花粉のように積もった。人々は肩から砂埃を払い落とした。ドアの下のしきまに砂埃の筋ができた。
 真夜中に風はやみ、あたりは静かになった。砂塵が充満した大気は霧よりも完全に音を封じた。ベッドに寝ている人たちは風がやむのを聞いた。吹きすさぶ風が消えたことで目を覚ました。人々はじっと横たわったまま静寂に深く聞きいった。やがて鶏がこっこっと鳴きだした。その声はこもっていた。人々はベッドで落ち着きなく身じろぎしながら、朝を待ちわびた。空気中の塵がしずまるのに長くかかることは知っていた。朝のあいだ、砂埃は靄のように空中に漂い、太陽は熟れた新しい血のように赤かった。一日じゅう、空から砂埃がふるいにかけられたように降り、つぎの日も降った。砂埃の毛布がむらなく地をおおった。トウモロコシの上に降り、柵の支柱のてっぺんにつもり、針金にも積もった。屋根の上に留まり、草木に毛布をかけた。(上p.10-11)

この砂埃による不作の結果、小作人たちは父祖も暮らした馴染みの土地を追われることになる。

 (略)ここはおれたちの土地なんだ、と小作人は叫ぶ。おれたちが測量して、畑にしたんだ。おれの一族はここで生まれて、働いて、死ぬ――だからおれたちのものなんだ。所有権ってそういうもんだろう。番号をかいた紙切れじゃないだろう。
 気の毒だとは思うよ。でも、やってるのはわれわれじゃない。怪物だ。銀行は人間とは違う。
 ああ、でも、銀行だって人間が寄り集まってできてるんじゃないか。
 いや違う。全然違う。銀行は人間とは別のものだ。銀行で働く人間がひとり残らず銀行のしていることを嫌っていても、銀行はそれをやる。銀行は人間を超えたものなんだよ。怪物なんだ。人間がつくったものだが、もう人間には制御できないんだ。(上p.63)

やがて農地に会社が送り込んだトラクターがやって来る。

 鉄製の座席についている男は人間には見えない。手袋、防塵眼鏡、鼻と口をおおうゴム製のマスク。それは怪物の一部、坐っているロボットだ。エンジンの轟音はあたり一帯に響きわたって、空気や大地とひとつになり、その結果、大智と空気が共鳴する。運転手はトラクターを制御できない。トラクターは田園をまっすぐ進み、十いくつの農場を蹂躙して、また戻ってくる。ハンドルを少し回せば進路を変えられるのに、運転手の手にはその動きができない。トラクターをつくった怪物、トラクターをここへ送りこんだ怪物が、どのようにしてか運転手の手と脳と筋肉の中に入りこみ、運転手の目に防塵眼鏡をつけ、鼻と口にマスクをかぶせ、心に目隠しの防塵眼鏡をつけ、思ったことを言葉にする能力にマスクをかぶせ、知覚に防塵眼鏡をつけ、異議を申し立てる能力にマスクをかぶせているからだ。(上p.66-67)

だから小作人がトラクターの運転手に何を言ったところで無駄なのだ。

 小作人は考えた。「まったく妙な話だ。ほんの少し土地を持ってたら、その土地はおれだ。おれの一部だ。おれにそっくりだ。そこを自分で歩けて、自分で耕せて、穫れ高が少なきゃ悲しむ。雨が降りゃ喜ぶ。そんな土地はおれとぴったり同じだ。いや、ある意味おれのほうが土地よりでかい。その土地を所有してるんだからな。稼ぎが悪かろうが、土地を持ってりゃでかい人間だ。そういうもんだ」
 小作人はさらに考えた。「だが自分で見もしない、指を土に差し入れてもみない、その上を歩きもしない、そんな土地を持ったら――そしたら、土地が主人になる。その人間は自分のしたいことができない。何をしたいか考えることもできない。土地が主人で、土地を持っている人間より強くなる。人間のほうはでかくない。小さい。持っているものだけがでかいんだ。人間は持っているものの召し使いだ。これまたそういうもんなんだ」(上p.70)

小作人の代わりにトラクターが働く農場の姿。

 家は大地の上に空虚なまま取り残され、そのせいで大地も空虚だった。トラクター用の小屋だけが、トタン板を銀色に輝かせて生きていた。トラクターは金属とガソリンと石油で生き、円盤犂を光らせていた。トラクターに明るいライトがついているのは、それらには昼夜の区別などないからだった。円盤犂は夜の闇のなかで土地を耕し、昼間にもぎらつきながら耕した。労働を終えて納屋に入った馬は、まだ命と活力を残しており、暖かい身体で息をし、足で藁を踏み、歯で飼い葉を噛む。その耳と目は生きている。納屋には命の温かみがあり、命の熱と匂いがある。だがエンジンをとめたトラクターは、その素材である金属と同じように死んでいる。車体は死体と同じように熱を失っていく。トタン板の扉が閉ざされ、運転手がくるまで30キロほど離れた町に帰ってしまったあと、何週間も何ヵ月も放置してかまわない。トラクターは死んでいるからだ。トラクターでの作業は簡単で効率的だ。あまりにも簡単なので、労働は驚異的なものではなくなってしまう。あまりにも効率的なので、土地も、土地を耕作することも、驚異的なものではなくなってしまう。驚異的なものでなくなれば、それに対する深い理解もきずなも失われてしまう。そして運転手の心には、深い理解もきずなも持たないよそ者に特有の侮りが生じる。しかし硝酸肥料が、燐酸肥料が、綿の繊維の長さが、土地なのではない。炭素や塩や水やカルシウムが人間なのではなく、それらすべてであると同時にそれ以上のものであるのに似て、土地もその構成要素以上のものなのだ。化学成分以上のものである人間が、土の上を歩き、手押し式の犂で意志を掘りだし、硬い岩盤をやりすごすために持ち手を押し下げ、土の上に坐って弁当を食べる。化学成分以上のものである人間は、構成要素以上のものである土地を知っている。だが知りもしなければ愛してもいない土地の上で死体であるトラクターを運転して機械に奉仕する人間は、化学しか理解していない。彼は土地を侮り、自分自身を侮っている。トタン板の扉をしめたあとは家に帰るが、彼の家は土地ではない。(上p.212-213)

小作人がカリフォルニアへ向かうため、家財道具を処分するが、買いたたかれる。

 ああ全部がらくただよ、持ってってくれ。5ドルでいいから。あんあたはただがらくたを買うだけじゃない。がらくたになった人生も一緒に買うわけだ。それだけじゃない――いまにわかるが――恨みつらみも一緒に買うんだ。あんたが買う犂はあんたの子供たちも踏み砕いていく。あんたは自分たちを救えたかも知れない腕と魂を買うんだ。4ドルじゃない。5ドルだよ。でも、もう持って帰れないし――いいだろう、4ドルで持っていけよ。ただし言っとくが、あんたはその犂で自分の子供らを砕くことになるんだからな。でもわからないか。あんたにはそれが見えないか。4ドルで持っていきな。さてと馬と荷車にはいくら出してくれるかな。この5頭の元気な鹿毛馬は、色もそろってるし、足並みもそろってる。一歩一歩ぴたりと合わせて進むんだ。荷車を力いっぱい引くとき、腰と尻の肉がぴたりと動きを合わせる。そして朝日を受けたときの、あの鹿毛のひかり。柵から鼻面を出してきて、おれたちの匂いをかぐ。ぴんと立てた耳の向きを変えておれたちの声を聞く。それにあの黒い前髪! おれには娘がひとりいる。娘は馬のたてがみや前髪を編んで、小さな赤いリボンで結ぶのが好きだ。それが好きなんだ。でもそれも終わりだ。あの向こう側にいる鹿毛馬と娘のことで面白い話がある。聞いたらきっと笑うよ。向こう側の鹿毛は8歳で、こっち側は10歳だが、一緒に働いているところを見ると双子みたいだった。見えるか。あの歯。全部健康だ。肺も大きい。足は傷もなくきれいだ。いくらで買う。10ドル? 両方でか。荷車も一緒でだと?――何を言ってやがる! そんなら撃ち殺して犬の餌にしたほうがましだ。ああ、持ってけよ! 早いとこ連れてってくれ。あんたは前髪に編んだ小さな女の子も買っていくんだ。自分の髪からリボンをはずして馬につけてやり、うしろにさがって、小首を傾げて、やわらかい鼻面に頬ずりをした女の子も。あんたは太陽の下で長年懸命に働いてきたおれたちの、その労働も買っていくんだ。言葉にならない悲しみも。でも気をつけてくれ。このがらくたの山とすばらしい鹿毛馬はおまけつきだ。おれたちの恨みつらみが一緒についていて、いつかあんたの家で育ち花を咲かせるんだ。おれたちはあんたらを助けられたかもしれない。でもあんたらはおれたちを見切り売りさせた。じきにあんたらも見切り売りさせられるが、そのときにはあんたらを救えるかもしれないおれたちはもういないんだ。(上p.160-161)

ドーム形の甲羅を引きずって歩くリクガメの描写は、カリフォルニアを目指す人々の姿を象徴する。

(略)そして道路わきの草の上を、一匹のリクガメが這っていた。ときどきとくに理由もなく方向を変え、高く盛りあがったドーム形の甲羅を草の上で引きずっていく。黄色い爪のはえた皮膚の硬い足をゆっくりとくり返し前に出すさまは、歩くというより、後足で甲羅を押し、前足で引っぱる、といったふうだ。たれた大麦の芒が甲羅の上を滑って離れ、クローバーの実が甲羅の上に降って地面に転がり落ちる。カメの硬い口先は少し開き、爪のような眉丘の下で、獰猛だが愛嬌のある目がまっすぐ前を見据えていた。亀は草を踏んだ跡をうしろに残した。前方には丘、すなわちハイウェイの土手がそびえている。カメは足をとめ、頭を高くもたげた。瞬きしながら、視線を上下に動かした。それから土手をのぼりはじめた、爪のある前足を前にのばすが土手の斜面には触れられない。後足で土を蹴って甲羅を押しあげる。原が斜面の草や砂利にこすれる。土手の傾斜が急になるほど、カメは必死の努力をした。後足は力をこめて斜面を踏み、やや滑りながらも、甲羅を押しあげていく。首を限界までのばして硬い頭を前に突きだす。少しずつ甲羅は斜面をのぼっていき、やがて行く手に立ちはだかる壁にぶつかった。ハイウェイの路肩に高さ十センチのコンクリートの壁が立っているのだ。後足がまるで独立の存在であるかのように動いて、腹を壁にもたせかけていく。頭が持ちあがり、壁の向こうのコンクリートの広い滑らかな路面を覗く。ようやく両手がてっぺんにかかり、力いっぱい身体を引きあげる。身体はゆっくりと持ちあがり、腹の先端が壁の頂上にたどり着く。(上p.30)

第7章(上p.113-122)では、中古車販売店が活写される。

 (略)商売人ってのは嘘ついて人を騙して、それを別の呼び方で呼ぶんだよ。それが大事なんだ。おまえがあのタイヤを盗んだら、そりゃ泥棒だ。あの男は屑タイヤを押しつけておまえから4ドル盗もうとした。それをやつらは“まっとうな商売”と呼ぶんだ。(上p,222)

阿漕な商売人の姿へ向けられた眼差しに対し、貧しい人の誠実さが眩しい。

 パイをもぐもぐやっているビッグ・ビルが、網戸のついた窓から外を見た。「商売ものを紐でつないどきなよ。そういう連中が来たみたいだぞ」
 1926年型ナッシュのセダンが、疲れた様子でハイウェイから離れてきた。後部座席には天井の近くまで物を詰めた袋や鍋釜のたぐいが積み上げられ、その一番上の天井すれすれのところに、男の子がふたり乗っている。屋根の上にはマットレスと折りたたんだテント。ドア下の踏み台に沿って、テントの支柱がくくりつけられている。車はガソリン計量器のところでとまった。髪の黒い、痩せてとがった顔の男がゆっくりとおりてきた。男の子たちも荷物の上から滑りおりて、地面に立った。
 メイがカウンターの中から出てきて戸口に立った。男は灰色のウールのズボンに青いシャツという恰好で、シャツの背中とわきの下が汗で濃い青に染まっていた。男の子はどちらも、継ぎ当てだらけのぼろぼろオーバーオール以外何も着ていない。長くのびた明るい色の髪が突っ立っているのは、始終うしろに掻きあげるせいだ。顔は砂埃で汚れている。泥水に浸かったホースのところへまっすぐに行って、足先を泥に突き入れた。
 男が訊いてきた。「ちょっと水を使わせてもらっていいですか」
 メイの顔に迷惑がる表情がよぎった。「ええ、どうぞ」そう答えたメイは、顔だけ振り返って小さく言った。「ホース、見張ってなきゃ」見ていると、男はラジエーターキャップをはずしてホースを突っこんだ。
 車に乗っている薄茶色の髪の女が言った。「ここで買えないか訊いてみて」
 男はラジエーターからホースを抜き、キャップをはめた。男の子たちがホースの口を上に向けて、むさぼるように水を飲んだ。男は黒っぽい汚れた帽子を脱ぎ、奇妙に謙虚な姿勢で網戸の前に立った。「あのう、パンを一斤、売ってもらえませんか」
 メイは言う。「うちは食料品店じゃないんでねえ。サンドイッチをつくるパンしかないんですよ」
 「ああ、そうですよね」男の謙虚な態度はなおも続く。「どうもパンが手に入らなくて困ってるんですが、この先まだずっと店がないと聞いたもので」
 「売ったら、うちもなくなっちゃうから」メイの口調は徐々にぐらついてきた。
 「どうも腹をすかしてるもので」
 「じゃあサンドイッチはいかがですか。おいしいサンドイッチとハンバーガーがありますよ」
 「はあ、それはそうしたいんですが、できないんです。10セント玉ひとつでみんなの分をなんとかしなきゃいけなくて」恥ずかしそうに言う、
 メイは言った。「10セントで1斤はむりでしょう。うちは15セントのしかないですもん」
 背後からアルが、「おいメイ、いいからそれはあげちまいな」と唸るように言った。
 「そしたら配達が来る前にパンがなくなっちゃうわよ」
 「そうなったらそうなったでしょうがないやな」アルは目下調理中のポテトサラダを不機嫌に睨みおろした。
 メイは肉づきのいい肩をすくめて、ふたりのトラック運転手を見、やれやれという顔をしてみせた。
 メイが網戸を押さえ、男を店に入れると、汗の匂いがぷんとした。男の子ふたちもすぐうしろから入ってきて、菓子の陳列ケースへ直行し、しげしげ眺めた――それを食べたいとか、食べられたいいなあとかいうのでなく、そういうものがそこにあることに感嘆している目だった。背は同じくらいで、顔もよく似ている。ひとりが足の指で、反対側の足の砂埃をかぶったくるぶしを掻いた。もうひとりが何かささやく。それからふたりはオーバーオールのポケットに両手を突っこんだまま腕をぐっとのばした。ポケットの青い薄い生地ごしに拳の形がはっきり見えた。
 メイが引き出しをあけ、蝋紙で包んだ細長いパンを取り出した。「これ、15セントなんだけど」
 男は帽子をかぶった。それからあくまで謙虚な姿勢をつらぬいて言った。「あのう――そこから10セント分だけ切ってもらうわけにはいきませんか」
 アルが苛立った声を飛ばしてきた。「メイ、いいから持ってってもらえ」
 男はアルのほうを向く。「いえ、10セント分だけ売っていただきたいんです。カリフォルニアへ着くまでの掛かりを細かく計算してあるんです」
 メイがあきらめたように言った。「じゃ、これを10セントで売りますから」
 「いやいや、それじゃ泥棒するようなもんです」
 「いいからそうなさいよ――アルがあげるって言ってるくらいだから」メイは蝋紙で包んだパンをカウンターの上で押し出した。男はズボンの尻ポケットkら大きな革の袋を出し、紐をほどいて口を開く。硬貨や脂じみた紙幣がつまって重そうだ。
 「こんなに倹約するのは変だと思うかもしれませんが」と男は申し訳なっそうに言った。「まだ千キロ以上行かなきゃいけないもんですから、足りるかどうか心もとないんです」人さし指で10セント硬貨を探しあて、親指とはさんでつまみだす。それをカウンターに置くと、1セント硬貨が1枚くっついてきたのがわかった。それを袋に戻そうとして、ふたりの男の子が菓子の前で固まっているのに目をとめた。男はゆっくりとふたりのそばへ行った。縞模様のついた、ペパーミント味の大きな長いスティック飴を指さした。「これは1本1セントですか」
 メイはそちらに近づき、指されたものを見ようとした。「どれ?」
 「この、縞模様のやつ」
 ふたりの男の子が目をあげてメイを見、息をとめた。口がなかば開き、透けて滅入る裸の身体がこわばった。
 「ああ――それ。それは――2本で1セントですよ」
 「じゃあ2本ください」男は1セント硬貨を注意深くカウンターに置く。男の子たちは詰めた息をそっと吐きだした。メイは2本のスティック飴を差しだした。
 「ほら、もらいなさい」と男が言った。
 男の子たちはおずおずと手をのばし、1本ずつ受けとると、それを身体のわきへ持っていき、見ることもしなかった。かわりに顔を見合わせて、当惑にこわばった口の端で小さく微笑んだ。
 「どうもありがとうございました」男がパンを抱えて戸口のほうへ歩くと、男の子たちもぎこちなくあとに従った。赤い縞模様のついたスティック飴は、ももにぴたりとつけていた。ふたりは縞栗鼠のように車の前の座席から荷物の上に跳びあがり、縞栗鼠のように身を隠した。
 男は運転席に坐り、エンジンをかけた。エンジンを唸らせ、青い油っぽい排気ガスを出しながら、古いナッシュはハイウェイに出て、西への旅を続けた。
 店の中から、ふたりのトラック運転手とメイとアルは車を見送った。
 ビッグ・ビルはくるりと身体の向きを変えてカウンターに戻った。「あれは2本で1セントの飴じゃないよな」
 「それがどうしたってのよ」
 「あれは1本1セントの飴だ」とビル。
 「そろそろ行こうぜ」と交代要員の運転手が言う。「だいぶ長居しちまった」ふたりはポケットに手を入れた。ビルは硬貨をひとつカウンターに置く。もうひとりの運転手はそれを見て、またポケットに手を入れ直し、硬貨をひとつ置いた。ふたりはさっさと戸口へ向かった。
 「じゃあな」とビルが言った。
 メイが呼び止めた。「ねえ、ちょっと! お釣り」
 「よせやい」とビルが言い、網戸がばたんとしまった。
 メイはふたりが大型トラックに乗りこむのを見た。トラックがローギアで走りだし、泣くような音でギアを段々に切りあげて巡航速度をめざすのを聞いた。「アル――」メイは低く言った。
 アルは、ハンバーガーを軽くたたいて厚みを減らし蝋紙に包む作業から目をあげる。
 「どうした」
 「これ見てよ」メイはカップわきの硬貨を指さした――50セント硬貨が2個あった。アルが知覚へ来てそれを見、また持ち場に戻った。
 「やっぱりトラック運転手ね」とメイは敬意をこめて言った。(上p.292-298)

貧しい人の誠実な姿は、本書冒頭で既に描かれている。

 ミューリーは居心地亜悪そうにもぞもぞした。「そりゃまあしょうがねえや」と言って、これでは感じが悪いと思い直してか言葉を切った。「あ、いや、そういう意味じゃねえんだ。そうじゃなくて、つまり」――言葉に詰まった――「つまり、ひとりが食い物を持ってて、もうひとりが腹をすかしてたら――そしたら、持ってるほうは嫌も何もないやな。だって、おれがこのウサギをどっかへ持ってってひとりで食ったらさ、な、わかるだろ」
「わかる」とケイシーは言った。「わかるとも。ミューリーには何かがちゃんとわかってるんだ、トム。そいつをちゃんとつかんでる。でもそれは大きすぎて、ミューリーにもわたしにも説明できないんだ」(上p.91)

貧しい人の誠実な姿は、本書後半、母ちゃんを通して再度確認される。

 母ちゃんは4つの紙袋を抱えた。「ところで、コーヒーに入れる砂糖がないんだけどね。息子のトムが砂糖を入れたがってるんだ。それでね、うちの家族はいままだ仕事してるんだよ。だからいま砂糖をもらえないかね。切符はあとで持ってくるからさ」
 小男は目をそらした――視線を母ちゃんからできるだけ遠いところへあてた。「そりゃだめだ」小さく言う。「規則なんだ。できない。まずいことになる。馘になっちまう」
 「でもいま畑で働いてるんだから、10セント以上稼ぐのに決まってるんだ。10セント分の砂糖をおくれよ。トムが砂糖を入れてコーヒーを飲みたがってるんだ。そう言ってたんだ」
 「できませんよ、奥さん。規則なんだから。切符がなきゃ渡せない。部長からいつも言われてるんだ。できません。できないです。」ばれるから。何をやっても絶対ばれるんだ。あの人たちは絶対見つけるんだ。できません」
 「たった10セント分でも?」
 「何セント分でもですよ、奥さん」男は頼みこむ目で母ちゃんを見た。それから、ふっと不安が顔から落ちた。ポケットから10セント硬貨を出し、レジを開いてそこに入れた。「これでよし」ほっとした声で言った。カウンターの下から小さな紙袋を出し、その口を開き、砂糖を中に注ぎこんだ。袋の重さをはかり、少しだけ砂糖を加えた。「さあどうぞ。あとで切符を持ってきてください。そしたらわたしはいまの10セントを取り戻しますから」
 母ちゃんは男をじっと見た。手が勝手に動くようにのびて袋をとり、腕に抱えたほかの袋の上にのせた。「ありがとう」と母ちゃんは静かに言った。そしてドアのほうへ歩いていったが、手前で振り向いた。「一ついいことを勉強したよ。そことを毎日、ああそうだなあって思うんだけどね。それは何か困ったことがあったら――貧乏な人のところへ行ったほうがいいってこと。親身になって助けてくれるのは貧乏な人――貧乏な人だけなんだ」母ちゃんは外に出て、そのうしろで網戸がばたんと閉まった。
 小男はカウンターに両肘をついて、驚いた目で母ちゃんを見送っていた。太った三毛猫がカウンターに飛び乗ってきて、物憂げな足どりで男に忍び寄った。腕に横腹をすりつけると、男は手でエコを自分の頬へ引き寄せた。猫は大きな音で喉を鳴らし、尻尾の先をくい、くいと動かした。(下p.266-268)

カリフォルニアの現実、あるいは土地を奪われた小作人たちを搾取するシステムについては、ジョード一家がカリフォルニアに到着する以前から徐々に明らかにされていく(上p.349-355など)。カリフォルニアの「フーヴァーヴィル」に着いて以降、身をもって知る羽目になる。

 移住民がハイウェイにあふれ返り、目に欲望と飢えをぎらつかせる。彼らには主張も組織もなく、数と欲求があるばかりだ、ひとり分の仕事に10人が殺到して争いあう――賃金の安さを競いあう。あいつが30セントくれと言うなら、おれは25セントで働くぞ。
 やつが25セントと言うなら、おれは20セントだ。
 いや、おれにその仕事をくれ。腹ぺこなんだ。15セントで働く。子供らがいるんだ。まあ見てやってくれ。小さな出来物がいったぴできて、外を走りまわることもできない。風邪で地面に落ちた果物を食べさせたら、腹がふくれあがっちまった。だからその仕事、おれにくれ。ほんの少し肉をもらえればそれでいい。
 これはいいことだった。賃金はさがり、作物の価格は維持できる。大土地所有者は大喜びで、もっと大勢人を呼ぶためチラシをまかせた。賃金はさがり、作物の価格は維持できた。この分だともうすぐまた農奴が持てるぞ。
 さて大土地所有者や会社は新しい方法を考えた。缶詰工場を買ったのだ。そして桃や梨が熟すと、果物の売値を栽培にかかった費用よりも安くした。缶詰工場の所有者は自分の農場から安く果物を仕入れ、缶詰を高く売って、大きな利潤をあげる。缶詰工場を持たない零細農家は農場を失い、その農場は大土地所有者や銀行や缶詰工場を持つ会社が買いとる。時が経つにつれて農家の数は減っていく。土地を失った零細農家の人々は、しばらくは町で暮らすが、やがて借金が限界に達し、友人親類の援助も得られなくなる。こうして彼もハイウェイに流れだし、ハイウェイは人を殺してでも仕事を手に入れようとする貪欲な人たちであふれ返るのだ。
 銀行や会社はいずれ自滅につながることをやっているのだが、その自覚がなかった。畑には作物が実っているのに、飢えた人々がハイウェイに出ていく。穀物倉庫はいっぱいなのに、貧しい家族の子供たちはくる病にかかり、ニコチン酸欠乏症からくる皮膚炎で脇腹に膿疱がふくれあがる。大企業は飢えと怒りをわける線がごく細いことを知らない。賃上げに回せたはずの金は、催涙ガスや銃、走狗やスパイの報酬、ブラックリストの作成や自警団の訓練の費用に使われた。人々はハイウェイをアリのように移動し、仕事を求め、食べ物を求めた。そして怒りが発酵しはじめていた。(下p.88-89)

「カリフォルニアの春は美しい。」で始まる第25章(下p.209-214)は、次の段落で締めくくられる。

 人々は川のジャガイモを網ですくおうとやってくるが、警備員に制止される。オレンジを拾おうと車でやってくるが、オレンジには灯油がかけられている。人々はジャガイモが流れ去るのを見、溝の中で殺されて生石灰をかけられる豚の悲鳴を聞き、オレンジの山がぐじゅぐじゅの腐敗物に代わっていくのを見る。人々の目には失敗が映っている。飢えた人々の目に怒りが育っていく。人々の魂の中で怒りの葡萄がふくれあがり、重く実り、収穫のときを待つ。(下p.214)

「母ちゃん」がジョード家を支える存在であることは、冒頭でトムの視点から魅力的に示されている。

 トムはじっと立って家の中を覗いていた。母ちゃんはどっしりとした体格だが太ってはいない。出産と労働のせいで肉付きがいいだけだった。服はだぶだぶの簡易な家庭着で、灰色の生地はもともと小さな花柄模様を散らしていたが、洗濯ですっかり色が落ちてしまい、地より少し明るい灰色の模様だけが残っている。丈は長くて足首まであり、その下で頑丈なはだしの足が床の上を機敏に動いた薄くなってきた鉄灰色の髪はうしろで小さなお団子に結わえてある。服の袖からはそばかすの散るたくましい前腕が出ていた。手はむっちりしているが繊細な造りで、ぽっちゃりした少女のそれのようだった。母ちゃんは日の差し込む戸口をじっと見た。丸い顔は柔弱ではなく、優しいながらも凜としたところがあった。はしばみ色の目はあらゆる悲劇を経験し、苦難の階段をのぼって、高い次元の落ちつきと超人的な英知に達しているように見えた。母ちゃんは家族にとって自分は絶対に陥落しない鉄壁の砦であることをわきまえ、受け入れ、歓迎しているように見える。そして自分が苦しい怖いと弱音を吐かないかぎり夫も子供たちも苦しみと怖れを知ることはないと承知しているから、絶対にその弱音を吐かないことにしていた。嬉しいことがあったとき、家族は母ちゃんが喜んでいるかどうかを確かめようとするから、母ちゃんは本当なら笑えないようなときでも笑うのが癖になっている。だが喜ぶよりもいいのは平然としていることだ。冷静沈着な人は頼もしい。家族の中で偉大でしかも控えめな存在であることから、母ちゃんは威厳と清潔で穏やかな美しさを引きだしている。母ちゃんは癒す立場にあることから、その手は確実で冷静で穏やかな手になっている。仲裁する立場にあることから、女神のように超然として判断を誤らない。母ちゃんは自分がぐらつけば家族もぐらつくのを知っているようだった。自分が深く動揺したり絶望したりすれば家族は倒れ、家族が家族でありつづけようとする意志が消えてしまうことを知っているようだった。(上p.136-137)

母ちゃんがトムを「イタチでも撃つみたいに」撃たれた「“プリティー・ボーイ(かわいい男の子)”フロイド」と重ね合わせるシーン(上p140-141など)により、読者にトムの未来を思い描かせる。
本作品を魅力的にしている要素の1つは、ルーシーとウィンフィールドというトムの幼い妹と弟の存在だろう。厳しい生活の中でも子供らしい振る舞い(いじわるや喧嘩など)をやめない(やめられない?)。「カリフォルニア」を目にして呆然(上p.426)、祖母ちゃん「自慢」(下p.33)、トイレ事件(下p.117-121)、クローケー乱入(下p.153-156)、手洗い回避(下p.188、p.272)、オーキー事件(下p.233)、クラッカージャック事件(下p.339-344)、覗き見(下p.390-392)、ゼラニウム独占(下p.416-418)などありそうなエピソードが鏤められている。そして、その姿に大人たちは鼓舞されるに違いない。
ウィードパッチにある政府のテント村(第22章~第26章の舞台)は住民の自治による一種の「理想郷」が描かれている。ジョン・スタインベック(1902~1968)と生きた時代が重なる武者小路実篤(1885~1976)が「新しき村」を建設したように実践するかどうかはともかく、文学者にとって理想郷(あるいはユートピアディストピア)を描くことは必然なのかもしれない。
映画『パブリック 図書館の奇跡(The Public)』(2019)で図書館員のマイラ(Jena Malone)が愛読書に挙げていたのがJohn Steinbeckの"The Grape of Wrath"で、同作品の重要なモティーフとなっている。実際に読んでマイラの訴えが実感できた。"overwhelmed"という表現を使うのがまさにふさわしい作品であった。とにかく多くの方に読んでいただきたい。
一家でマイクロバスに乗りカリフォルニアの美人コンテストに向かう映画『リトル・ミス・サンシャイン(Little Miss Sunshine)』(2006)は『怒りの葡萄』の後裔なのだと今さらながら気が付いた。